ものはためし

書く訓練、備忘録

くまさん

いちばん悲しかったことについて、いちばん好きだった人に話したときのことを書く。もう話したことがあったけれど、何度でも聞いて欲しかった。

 

わたしにとって大事な人が、常識的に、というか、一般的に良しとされない言動をしたのだった。わたしは、それは良くないな、と思った。しかし同時に、その人がその言動に至った背景は理解できてしまった。傷つけられてきた人が仕返しに人を傷つけていいかというとわたしはそうは思わないが(これについてはまた書く)、今回のことについては仕方ないことだ、なるべくしてなったのだとも思った。わたしは、その言動自体ではなく、それにより自分の大事な人がそんなことをしてしまうまでに傷つけられ、追い詰められていたのだということが明らかになってしまい、悲しかったわけだ。分かってはいたけれどそれ以上に分かる、思い知ったという表現がいいかもしれない。だからといって何ができるわけでもなく、ただ何もなかったかのようにそこに存在することだけが、わたしにできることだった。そういう話。

 

わたしが話し終わったあと、好きな人は「直木賞みたいだね」と言った。

 

そうだ、そのとき、コンビニで見つけて珍しいから買った、スイカ果汁100%のジュースを飲んでいた。全然美味しくなかった。スイカをそのまま食べた方が断然いい。わたしは、この話をしながらへんてこな味のジュースを飲んだことをきっと一生忘れないと思った。一生とか、いつもは薄っぺらくてばかにしている言葉たちが、するする出てくるような夜だった。

 

わたしはもともと、たぶん、死の匂いのする人間だった。もう生きていても仕方ないなと思っていた。しかしそれと同時に、いつもそう思ってきたのに結局今まで生きてきたじゃないか、とも思った。わたしは絶対に死なない気がするし、それは絶望的なことだった。生にうんざりするたびに、でも生きていくしかないという現実をつきつけられる。それが転じて、生き続けなければならないという覚悟が独立して強くなっていったように思う。

そういう変化のあったとき、いちばん近くにいた人は死生観に限って言うと元のわたしに似ていた。わたしはなんだかんだこれからも生きていくんだな、と思ったときに、依然として死の匂いのする人がそばにいるのは怖かった。それで、はやく逃げなければならなかった。

「そうだね、逃げた方がいい」と彼は言った。わたしは童謡の森のくまさんに出てくる「お嬢さん、お逃げなさい」というフレーズのことを思った。

お嬢さんは逃げます。すたこらさっさっさのさ。

けれども、ただ生の輝きを放つわたしになったわけでもないのだった。

さあ、どこへ向かって走っていこうか。

 

へき

そういえば前の冬に人と飲みながらカニバリズムの話をした。おいしいかは別として、形状的に耳が1番食べやすそうという結論になった。次の日耳が腫れた。

わたしは何故かくたびれると耳が腫れる。リンパか?よくわからん。ある時あまりに痛くて耳鼻科に行った。するとお医者さんが「耳にばい菌が入ってるね、あなた耳を触る癖があるでしょう」と言ってきた。わたしは耳を触る癖などないので否定すると、それでも更に「ほんとうに?触ってるんじゃないの?」と言われたので、ムキになって強めに「触ってません!」と返してしまった。でも後で考えると確かに耳を触る癖、あるかもしれない。ある気がしてきた。なんであんなに強く言い返してしまったのだろう、恥ずかしい。

耳が痛くなる原因は別の時に突然判明した。顎関節症らしい。そのときも前と同じ耳鼻科に行ったのだが、「こうすると耳が痛い」と説明するたびに「痛いのは耳じゃない、顎の関節なんだよ」といちいち訂正されたので、ムキーッとなりまた言い合いになるところだったが我慢した。だって正しいのはお医者さんですからね。

 

 

夜に帰宅するとマンションの前にねこがいた。3匹くらいいた。そして、わたしとねこ、どちらがどちらを先に見たのか忘れたが、わたしは1匹のねこと目があった。絶対に先に目をそらすもんかと思ってじいっと見た。見つめながらにじり寄って近くにしゃがみこむが、すごい、逃げない。ねこは花壇の草をふみふみした。ふみふみ!いかにもねこの動きだ!わたしはじいっと見つめた。

と、ねこがおもむろに、おしりをこちらへ向けて、じゃーっと排尿したのだ。なんと!なんとまあ。ひとの敷地内で。ひとの花壇で。ひとの目の前で!驚きのあまりわたしはスッと立ち上がり、よろよろ家に入った。野良猫にしてはひとの目を気にしなさすぎる。こんな近づかれて平気なのか?もはや楽しいのか?そういう癖のあるねこなのか?心がざわざわした。先に目をそらさまいとした最初の意気込みはどうした。精神力でいうと完全にわたしの負けである。

 

次の日の帰宅途中にも驚きがあった。公園の横を通ったとき角の向こうからおじさんがやってきて、突然立ちションしたのである。おやおや!?この、うら若き乙女の面前で?尿意にそんなに耐えられなかったのか?昨日見たねこを思い出した。しかしねこと違っておじさんは、絶対にじっと見てはいけないと直感した。足早に通り過ぎてから、ひとりで少し笑った。

ピアノの思い出

子どもの頃にピアノを習っていて、毎日ちょっとだけずつ練習してたんだけど、部屋の角にアップライトのピアノがあって、その前の壁に絵がかかってたんよ。たしか花瓶に生けられた花の油絵だった。ちょっと黒っぽい色彩とかぼこぼこした表面とか、金色のいかつい額縁とか、全部合わせて、なんだか怖いなと思っていた。綺麗だとは思わなかった。子どもだったからかな。

それでいて、わたしはピアノを弾きながら鍵盤でも楽譜でもなく、その油絵をぼーっと眺めていたような気がする。

ちっちゃいときにピアニストの先生の公開レッスンを受けたことがあるんだけど、(えらい熱心だし幸運だったよな、なんでそんな展開になったんだっけ!?)そのときわたしはクレメンティソナチネを弾いていて、先生から「クレメンティが降ってくる感じで…ほら、ちょっと見上げて弾いてごらん」みたいなことを言われた記憶がある。それ以来上を見てしまうような、そんな気がする。それで練習するときも上にかかっている絵を見てたんだっけ。上を見てたらバッハやベートーベンやショパンやリストが降ってきたのか?降ってきたのかもしれない。そうやって楽譜を見ずに弾いていたから15年も習ったのに楽譜をちゃんと読めないのか?めちゃくちゃかいな。

けど、別のことを考えていたような気もする。

狭い家にたくさんの家族で住んでいた。家の中では皆がいつも誰かの感情に触れて生きていて、関係が入り組んでいた。それが当たり前だったんだけど、離れた今となってはもう絶対に戻れないなというような窮屈さがそこにあった。

ピアノを弾いているときだけは自分ひとりで、弾き終わるまでは誰も入ってこられないという感じがして、毎日弾くのは面倒だったけどわたしはわたしだけの時間と空間をそこに見出していたのだと思うな。そう考えると音楽にはずいぶんと昔から救われていた。

 

実家を出て5年目になる。ピアノのない部屋で暮らしている。壁に油絵もかかっていない。この部屋では、人を呼ばない限りどんなときもひとりで、天井を見上げても下を見ても窓を開けても閉めてもひとりで、これでいいのか、これがいいのか、このままでもいいのか分からないけど、もうあの家では絶対に暮らせないので、今のところこうするしかない。これからどこで、誰と生きていくかは自分で決めていけばいい。もはや音楽の話ではないな。いいとか悪いとか評価しないでただ事実を受け容れるだけだ、と言ったのに、やっぱり、色々と評価しようとしてしまって困る。

でもこれだけは、

ピアノを習わせてくれて、うるさかっただろうに毎日ピアノを弾かせてくれて、音楽に救われるわたしにしてくれてありがとう、と思っている。家族に、ピアノの先生に、クレメンティに、バッハに、リストに、ピアノに、あの部屋に、あの油絵に。

Great-Era-era

 

休日の朝、今日は午前指定で荷物が届くので待っていた。米5キロ。

5キロという響きだけでたいへんわくわくした。

先輩に連れて行ってもらったお店で食べた、チーズの上にはちみつをかけて食べるピザの味が忘れられない。トーストを焼いてチーズとはちみつをかけて食べてみた。はちみつしみしみ。

先輩にお土産でもらったコーヒーも淹れた。わたしはブラックだとお腹が痛くなるので、ミルクたっぷりで。

昨日の夜ゆでた卵も食べた。ゆで卵って冷蔵庫に入れてたらどのくらいもつんだろう。あと4個あるんだけど、殻剥いて味玉にしといたほうがいいかな。

なんか、ちゃぶ台の上のこの景色がとっても貴重だなと思った。はちみつのボトル、クレイジーソルト、卵の殻、昨夜書いた日記の紙切れ、ペン、一つ一つに思い入れがある。全然映えないけど人に見せたかった。

 


お金ないなりに楽しく生きねばならん。なんか、突然気づいたけど金銭感覚の合わない人と一緒にいると苦しいな。色々考えてしまう。人と人が違うということは、いいとか悪いとかじゃなくて、ただ当たり前の事実としてそこにある。事実を評価しないこと。してもいいけどその感情に振り回されないでいけるといいよね。

 

米が来た!!5キロって意外とちっちゃいな。けど米は炊いたら増えるから。だいぶ食べられるな、やったー!ピースピース✌️

伝票にサインして渡したら、宅配の人がわたしの目を見て「おおきに!」と言ってくれた。すばらしい仕事だ。

 

大きなことから小さなことまで、やることが溜まっていた。朝起きてから今まで、洗濯機を3回も回した。布団カバーとかトイレマットとかキッチンマットとか薄い方のカーテンとかまで洗った。しかもすぐ干して、アイロンが必要なものにはアイロンもかけた。なんなんだ、偉すぎる。偉時代の幕開けである。

朝起きた瞬間から夕方までずっと細々とタスクをこなしているんだが終わらん。しかし確実に部屋は綺麗になってきて、生活の立て直しという感じがして、やっぱり偉時代だ。

 

ルーを使わないでカレーを作った。チキンレモンカレー。スパイスとはちみつとヨーグルトとか入れるんだよ。またはちみつ摂取してしまった、大丈夫かな。

引っ越してからずっと引きずってた丈の合わないカーテン、ミシン持ってないから手縫いした。1時間以上ちくちく縫っていた。偉い、偉いなあ。それでやっと片方だった。もう1枚縫う元気は残っとらん。

 

最寄りの駅から主要駅までわざわざ電車に乗って行って、定期の更新をした。半年定期だから、つまりは働き始めて半年が経つわけだ。感慨深い。

行きも帰りもぼーっとしていた。スーパーに寄って食材を買った。レジで金額を言われたのにお金を出すのを忘れて突っ立っていて、店員さんに怪訝な顔をされてしまった。すみませんぼーっとしていました、と言ってお金を払った。家までの道、スーパーの袋をぶらさげて歩きながらやさしい音楽を聴いていたらじわじわと涙が出てきて、そのまま泣いてしまった。悲しいとか切ないとかそういう感情ではなく、疲れたな、と思った。ひとりで必死に暮らしていくことにくたびれた、けどこの道を選んだのもわたしだしこれからもずっと選び続けていくんだろうな、いいも悪いもなくただ当然に。

 

疲労とホルモンへの敗北を感じた。

 

自分の使っている洗剤が、洗濯機のすすぎは1回でよいやつだということに長い間気付いていなかった。最近ようやく気付いてすすぎ1回コースにしてみたら思いのほか早く洗濯が終わってびっくりした。すごいなすすぎ1回。これまで気付かないまま2回すすいで無駄にしてきた時間と水のことを思ったが、落ち込みはしなかった。

 

週が明けた。

いつもの川に、カメがいなくてカモがいた。カモはいつから渡り鳥でなくなったのか。ちょっと遠くで魚が跳ねた、大きいやつ。あと橋を渡る自分の影が、ゆらゆらと水の中を同じ速さで歩いていた。夏休みに友人と橋を見に行ったときに撮った写真のことを思い出したりした。

景色が見えるから、まだわたしは大丈夫、大丈夫と思った。

こうやって暮らす。

斜めの板の上に立っている

わたしは普段あまりかかとの高い靴を履かないが今日はたまたま履いて出かけた。廊下を歩くとカツカツいう。女の歩く音である。わたしは足音をできるだけ鳴らしたくないのでカツカツいうのが気に入らない。まあ足音が鳴ること自体はいいとして、足音だけで女だと分かるのも嫌だった。夜道で「ここに女がおります」と言いながら歩いているようなものである。

しかしそれとはまた別に、多少ヒールのある靴を履くとある意味気合いが入るのも事実で、多少痛いけれどその靴を履くという選択をしているのはわたしである。パンプスに対しては単純な感情で接せない。

ふと足元を見下ろして思ったのだが、靴底って板だよな。ほんのちょっと斜めになっている板の上に立っている。我々は一日中斜めに立っている。そんな、なんと変てこりんな!昼頃そのことに気づいて、驚いているうちに夜。

 

遅くなると分かっていたから大きなお鍋にカレーをいっぱい作っておいた。家に帰ってご飯があるというのは心強いな。

ここのところ新しい曲を聴ける。文章がすっと頭に入ってくるから本も読める。きっと秋だからでしょう。家事も捗る。

お皿って洗うと何度も使えるからすごいよね。あと服も洗うと何度も着られるからすごい。

 

この間すんごく怖い夢を見て夜中ハッと起きて、震えながら「バク…バク頼む!」と思ってまた寝た。雑貨屋さんで見つけて、欲しかったけど我慢したバクのぬいぐるみ、やっぱり買っとけばよかったな。

いい子にしといてサンタさんにお願いできないかしら、など。

 

おーわーり

暗喩

街のお店に立つペッパー君は電源を切られてうなだれていることが多い。珍しく顔を上げて、お腹のディスプレイを光らせているペッパー君を見た時、「ペッパー君が生きてる!」と思った。

 

弱ったとき近くに自分より弱っている人がいるとそれを感じ取って無意識に頑張ってしまう。しかもそれは相手のためではなく自分のためだからややこしい。

人に対して自分が起こす行動は全部全部、自分のためだと思いたい。あなたのためです、なんていうのは中途半端である。

自分がそうしたい相手に対してそうするんだからそれは自分の喜びのためでもある。そして、もしその優しさが適切ではなくうまく受け取れなかったとしても受け手は申し訳無く思わなくていい、わたしのことを恨んでくれてもいい、そのくらいの覚悟でいかねばならん。これは自分への戒め。

こうして欲しかった、という思いから自分はこうなろうという結論を出すことが多い。しかし人と自分は違うんだからして欲しいことも違うわけだ。正解が分からない。分からない分からないと思い続けていないと分かった気になってしまう。

 

壁にテープで貼っていたカレンダーがはらりと床に落ちた。8月が終わることの暗喩か?

じゃらじゃら

帰省ラッシュの新幹線は混みすぎて通路までいっぱいで、降りることすら困難に思えた。降りるとき「降ります!」「わたしも降ります」「あ、わたしたちも降ります、前の人たちも降りるみたいです」みたいな会話があって、みんなで頑張って降りましょうねみたいな雰囲気になってなんか面白かった。いざ駅に着くと意外とすんなり下車できた。多分その後に乗り込む人たちの方が大変だっただろうな。

日帰り旅行。橋を見に行った。子どもたちが川遊びをしていて、尻餅をついた子が「パンツが濡れた!」と絶望しており、確かに着替えがなかったら絶望するよなと共感しつつも微笑ましいと思った。

バス停に並んでいて、ぞろぞろ乗り込む時に下を見ていたら、誰のものか、道に小銭がじゃらじゃら落ちていた。それで思い出したのだが、先月旅行に行った時にも小銭がじゃらじゃら落ちていたな。お風呂屋さんのトイレで拾った。受付の人に届けるとき、「いっぱい落ちてました!」と言ったら「いっぱい落ちてました…?」とおうむ返しされた。確かにその表現は変てこであった。

ひとりでいるとき大抵連想ゲームをして色んなことを思い出している。良かったことも嫌だったことも満遍なく思い出す。わたしは過去に執着しているのかもしれない。けれど全てのことを思い出すわけではなく、思い出さなかったことは思い出さなかったことにすら気付かないで忘れていくのであり、そのことに安心する。

帰省から戻り都会の景色を見たとき、高いビルが立ち並ぶ風景に思わず「これだこれだ、落ち着く」と思い、ついこの間まで「ビルが多すぎて怖い」などと言っていた自分を思い出してうひゃーと思った。思う思うばかりだな。

帰省してる間に冷蔵庫に置き去っていたほうれん草があった。戻ってきたら案の定しなびていた。しなびると分かっていながら置き去ったわけだ。大丈夫なところだけ選んで味噌汁にした。美味しい。美味しく食べられてよかった、よかったね。

9連休もしてしまったので明日から仕事だなんて信じらない。自分が仕事に就いているということ自体信じられない。夢だったらどうしよう。明日出勤して、わたしのデスクがなくなってませんように。