ものはためし

書く訓練、備忘録

『二年間の休暇』

夏休みをとって何日か仕事しなかったけど、その間何をしていたかというと風邪をひいていた!行きたいところはあったがほとんど出掛けられなくて残念だった。しかし部屋でゴロゴロしながらも、何かしら長期休みらしいことをしなければ癪だと思い家の中にある分厚い本を読破することにした。やることのない長期休みの恒例である。本棚を漁ると、子どもの頃から目にしていたものの一度も読んだことのなかった本を見つけた。児童文学ながらかなり分厚く、しかも私の記憶の限り、それは子ども用の勉強机の足元にある棚のすみにずっと立てられたままだった。そうして、その本が選ばれた。

古い時代の物語だったから、今ではありえないような描写もありつつ、それはいい意味でも悪い意味でもだった。例えば人種差別的であったり、学校教育のあり方だったり。何より驚いたのは作中で描かれた子どもたちの賢さだった。知識の豊富さ、それを使って問題を解決する能力、自律心、それでいて無邪気さもあって、子どもらしさは失われていないのである。フィクションだからそんなに考えなくていいはずなんだけど、今どきこんな子どもはいまいし、自分が子どもの頃だってもっと幼かったぞ、などと考えた。ストーリー全体としてはちょっとそんなにうまく行くかね?と思うような運の良さもたくさん伺われて、いかにも児童文学という感じでよかった。

読み終えて、「これ面白かった、子どもの頃に勉強机の下にあった本だよね」と親に話すと衝撃の事実が発覚。親曰く、勉強机の下の棚は可動式で、好きな高さにしてペグで固定するはずなのだが、ペグを一つ紛失したため、ちょうどぴったりの高さと分厚さを兼ね備えたこの本をすみに置くことで支えにしていたというのだ。なるほど引っ張り出して読む気にならなかったわけだ。まあそんなことはさておき。このお盆休みは出掛けられなかった割に冒険はできた、しかも二年間も。

休みが明けて出勤。サラリーマンの群れの中に、見たことないくらいしわくちゃのシャツを着た者がいた。どのくらいかというと、「洗濯機で洗ってアイロンをかけなかった」どころではなく、わざとしわがつくようにアイロンをかけたのかと思うくらい。でも多分それは違っていて、くちゃくちゃにしたままスーツケースに入れてそのままパタンと閉じていたのを引っ張り出して着たのだと思う。お盆明けですから。若しくは、ドラム式洗濯乾燥機で乾かしてしまったなど。そうして後ろを歩いていたら、その者はすうっと巨大なビルに吸い込まれて行った。極めて大きな企業に勤めているようだ。

職場に着くと、敷地内でミーンミンミンミンミンゼミ(この方が正確だろう)が鳴いていた。最近の夏はアブラゼミとクマゼミしかいないから珍しいと思った。時代が変われば季節の音も変わる。ミンミンゼミがいることを同僚たちに教えてあげたいと思ったが、みんながみんな季節の音に興味があるわけではないので思いとどまった。共有できなかったからといって、それがなかったことになるわけではない。私が私の耳と心で受け止めたから。ここにこうして書いているから。

大丈夫なときだけ大丈夫でいればいい

36になったら死のうかなとぼんやり決めたのが20くらいの時で、先日30になった。車の運転も覚えたし新幹線にも一人で乗れるし、欲しいものは自分で買える。人のことを信じてみたり信じられてみたり諦めたり諦められたりした。

週末、夏野菜の焼き浸しを作ってから家を出て、料理教室に行って、ケーキを焼いた。

食べることは生きることだと思う。私は食事が得意でなく、食べないで生きていけるならそれでいいとすら考えるが、調理は工作みたいな意味での楽しさがある。ただ食べることを見越して作ってはいないので味に対する向上心がなくいつまでたっても上達はしない。あんまりこういう人に会わない。食に対して同じように向き合ってる人がいれば会ってみたい。

庭に植えたトマトが赤くなったので、朝の出勤前にもいで食べた。自分が何をしたいのかわからない、楽しかったり楽しくなかったりする日々。

人から、感受性が豊かなんだねと言われたが、自分としてしか生きたことがないから他の人の感受性がわからない。みんな思ってても言わないだけなことを私だけが言ってるのかもしれないし。きょろきょろしながら生きてる、なにこれ。

でもさ、週末に食べたアイスが美味しかった、そのことを思い出すだけで今週は頑張れる気がするよ。

今日さ、

駅のホームを歩いてる時にカバンからボールペンを落としちゃったんだけど、落とした瞬間に自分で踏んづけてしまって、ボールペンに黒々と足跡がついた。靴の裏ってこんなに黒いんだ、と思った。

職場のトイレで手を洗ったら、センサー式の蛇口だから手を引っ込めたら水が止まるはずなのに止まらなかった。ずっと止まらないんじゃないかと思って、止まるまでじいっと見ていた。止まるまで見たと書いているということは、止まったということ。よかったね。

私が通勤かばんに付けてるキャラクターのマスコットを、おじいちゃんが指さして「可愛いね」と言ってくれたこと。92のおじいちゃんにとってもこれは可愛いものなんだ、と思った。

なんとなく、何ということはないけどどんよりした気持ちがベースにあって、でもるんるんした気持ちもあって、このままやっていって大丈夫だろうか。

今日こんなことあったんだよって話したいし聞かせてほしい。一緒にいなかった時間のお互いの経験を交換し合うなんて、この上ない贅沢だ。しかも、相手のフィルターを通して見る世界。私に向かって語られることば。そういうのが一番大事だった。

ゆるすとかゆるさないとか

昔書いた下書きが山ほどある。このブログは2016年に始めたから、一番古いので10年温めていることになる。さすがにそこまでくると、今の私の言葉とは言えまい。

以下、下書きから。

『花粉にやられて過ごしにくくなった。目が痛くなったり顔に蕁麻疹が出たりする。かといって花粉症の薬を飲むと一日中眠くなってこれはこれで過ごしにくい。なんなんだ花粉、わたしは絶対にお前を許さないぞ、と思った。しかし許さないとしてじゃあどうなるのだ。

そこまで考えて、許せないけど許さなかったところでどうでもいいことのことに思い至った。

悔しい思いをしたところでその状況は変わらないのだから、そういったマイナスたちを自分がどう捉えるかということだけ、変えることができる。とわたしは思っている。だから、昔あった許せないものごとのことを未だにモヤモヤ思っていて、許せないなと思って苦しんでいるとしたらなんとかして許すしかないのかしら。でもそんなことができれば悩んでなどいない。

旅行から帰って家に着くなり瞬時に荷物を解いて洗濯機を回した。非日常から一刻も早く日常に戻りたいという気持ちがある。洗濯物を干して(もちろん花粉をキャッチしたくないので部屋干し)、達成感に浸りながら床に寝転んだらそのまましばらく眠った。手がむずむずするので見たらカマキリが指にのっているという夢を見て飛び起きた。わたしはバッタの類が苦手で、それは急にとんだりはねたりするからである。』

ここで2026年6月のわたしに戻る。だいたい、さみしいときしか文章を書こうと思わない。何か考えたり書いてるときの自分のことが好きだけど、ずっとそうしてはいられない。

ふしあわせは面白いしエンターテイメントに昇華できる、でもふしあわせをアイデンティティにしてはいけない、しないぞ、とも思った。

クレープでは怒ってくれないんだ

友人とファミレスに行った時、あまりお腹が空いていなくて何を食べたいか自分でもよく分からなかった。私はそういうことがよくある。それで、メニューをいつまで経っても選べないので、いっそのこと誰かが勝手に選んでくれたらいいのに、と思った。その後、かといって選んでもらったものが全く好みじゃなかったらそれはそれでなんか嫌だなと思った。それで「勝手に選ばれるのは嫌だ…」と小声で言ったのだが、それ以前の私の思考は脳内で行われていた仮定の話だったので、友人に「一体何に怯えてるの?」と笑われてしまった。ほんとだわ。私は一体何に怯えているんだろうね。

 

友人(男)とクレープ屋さんに行ってそれぞれ別々のトッピングを選んだとき、区別できるようにお店の人が印をつけて渡してくれた。そうしながら友人に「絶対間違えないようにね!食べ物で女の子を怒らせたらだめだよ、ほらプリン食べちゃってけんかになるとかあるやんか」と釘を刺していたため、「あ~、プリンは怒りますねえ!」と横から言ったら、クレープ屋さんが「クレープでは怒ってくれないんだ…」とつぶやいていた。なんか申し訳なかったが後から笑いが込み上げてきた。あと、女の子が甘いもので怒るっていうのは偏見だぞ!!!

 

シロップ漬けにしていた檸檬を味噌汁に入れたらめちゃくちゃ美味しいスペシャル味噌汁になった。マイホーム願望は特になかったのだが、庭に檸檬の木を植えて収穫したいがために土地の購入及びマイホーム建立を決意(何年かかるんだ)。

あれ?家には建立ってことば使わないんですか?あら…わかりました。

 

目指すところや生き方の違う者同士、互いを否定せずに生きられないものか。なぜそんなことを急に思ったかというと、もののけ姫を観たからである(注:映画館でジブリの再上映を盛んにやっていた時期に書いた。)。どうしても合わない相手とは関わりを待たないのが1番だが、それでも関わりを持ちたい場合、持たなければならない場合もある。よくわからないけど、調子がいいときだけ近づくのが安全かもね。

 

おわり

種を植える

久々の友人から連絡が来て、やりとりしていたらその晩夢に出てきた。その友人ともう1人知らない人とわたしと3人で、回転寿司にいた。そのあと一旦起きて二度寝したときまた夢を見た。知っている人をとっ捕まえて手錠をかける夢だった。知り合いを逮捕とかしたくなくてかなり辛かった。まあわたしは警察じゃないので現実ではありえないのですが。

 

だいぶ前の話になるが、キッチンのシンクを掃除しようと思って排水溝の蓋をあけたら、ネットにもやしのようなものがたくさんあった。思えばその数日前にメロンを買ってきて食べたのだが、その時適当にシンクに吐き出した種から芽が出ていたようだった。メロンの芽!?

過去にわたしは色々な種を発芽させた経験がある。例えば藤。子どもの頃外で遊んでいるときに近所の犬が散歩で通りかかり、撫でたりしていたらその犬が何かモグモグしていて、飼い主がコラッと言って吐き出させたらそれが藤の種だったわけです。わたしは幼い頃から犬が苦手だったがその犬だけは大人しく(おそらく彼女は自分を犬と思っていないタイプの犬だった)、わたしは近づくことができたのだった。わたしはその種をもらい、家に持ち帰って大事に育てた。なんとすくすく育ち、今や実家の庭に藤棚を形成している。しかも祖父曰く「いい種類の藤」らしく、どこぞの庭に植えられたいい藤の種を犬が見つけてきて食べていたと推測される。

それから、枇杷。これまた子どもの頃、もらいものの枇杷を食べておいしかったので「また食べたい」という思いから種を庭に植えたところ、みごと発芽したのであった。実家の庭にはスペースが足りないとのことで、苗を鉢に入れて学校に持って行ったら用務員さんが校庭に植えてくれた。そういうわけでわたしの母校のすみには今でも枇杷の木があり、立派な実もなるのです。

そういった経験が皆によくあることなのかわからないけれども、わたしは子どもの頃の成功体験から未だに種を見ると植えたい気持ちに駆られる。

とはいえメロンの発芽に関していえば全くそんな気はなく、どちらかというと自分のだらしなさの象徴ともとれ、恥ずかしい気持ちがないではない。しかし面白いので色々な人にこの話をしている。

トンビと目があったよね

少し前の旅先。

雪の残る展望台で、おそらく生まれて初めて、コイン式の双眼鏡に百円玉を入れて覗き込んでみた。自分のまつ毛がレンズに当たって虫のように見えて邪魔だった。あ!車だ!遠くの車がはっきり大きく見える!などと言ったがわざわざ百円払って他人の車を見てどうする。景色を見ねば。しかし霧が出ていて、霧がかった景色は望遠で見ても霧がかっているのであった。

旅館の朝、中居さんが入ってきて、新聞紙です、と言って差し出した。新聞紙というとその紙そのものを指すことが多く、情報のことを指すのなら新聞というように思ったので、(新聞を読むと言うが新聞紙を読むとはあまり言わないし)なんだか面白かった。

帰りの特急までまだ時間があったので、誰だかのゆかりの公園に行ってみた。そこにはまた展望台があり、プールの飛び込み台みたいに唐突に、階段だけで構成された建物だった。4階か5階分登ると、日本海が見えた。昨日の別の展望台では霧が出ていて見えなかった日本海だった。これは登ってきてよかったな。私たちはベンチに腰掛けてチョコレートを一欠片ずつ食べ、ペットボトルの水を飲んだ。公園に来る道すがら前を通った浄水施設の建物が真下に見下ろせた。屋上がテニスコートになっており、おじさんたちが休日を楽しんでいた。ふと見上げるとトンビが飛んでいた。羽ばたかずに気流に乗って私たちの頭上を舞っている。狙われている!私たちはそそくさと階段を降りた。

そんなことがあったのです。