ものはためし

書く訓練、備忘録

さようなりませんが

たまに電車に乗ると楽しい。全くばらばらな人々の「気」を吸いこむ。かなりエネルギーを使うけれど、それは後で考え事をするための種を集める作業だ。

 不思議なことに、電車には必ずきれいな女性が乗っている。きれいな女性が着ているコートを眺めながら、今年はどんなコートを買おうか、変わった色がいいな、と考える。

 ひとつの場所を去るということはまた、別の場所へ行くということでもある。しかし色々な道具を使えば瞬時に二箇所を行ったり来たりできるし、同時に二箇所に存在するなんてこともできる。だから何なのだという話だけれど、要するにSNSは難しい。

 

 「君がいない世界なんて僕にとっては意味がない」なんて、yuiは歌うけれど、自分も本当にそう思う日が来るとは思わなかった。さようなら。

生きる

外に出て日向ぼっこをしていたけれど、雲が多くて次第に身体が冷えた。ぼーっとして勉強が手につかないので携帯をいじっていたら急に充電が切れそうになった。60%からいきなり20%を切るなんて、私のiPhoneもそろそろ寿命なのかもしれない。

寿命といえば、明日死ぬなら今日なにをするかという議論を思い出す。そもそも私は明日死ぬつもりはないのだが。とはいえ一応考えておいて損はないだろう。死ぬ前にやっておきたいことは色々あるので困る。例えば大好物を食べるとか、親に諸々のお礼を言うとか、好きな人に好きというとか。しかし明日死ぬなら好きな人に何も言わない方がいい気もする。明日死ぬから今日好きと言うのは私の都合で、相手にしてみたら好きと言われた次の日に死なれるなんて勘弁してくれという感じではないか。告白が成功して死ぬのも嫌だし、失敗して死ぬのも嫌だ。まあどちらにせよ死ぬのは嫌だ。ずうずうしく明日も生きるつもりなので今日何をしてもいいことにした。みかんでも食べよう。

考えすぎを考える

電気をつけたまま寝落ちしていたけれど、起きたときに太陽の光で部屋が明るかったのでそのことにしばらく気づかなかった。

このことが何を表しているか考えた。例えば幸せとか。同じ電気がついていても、外の明るさによって体感が違うように、同じ出来事でもその時置かれた状況によって幸福感が違うんだよな、というように。他にも、気づかないうちに増えている電気代のことなど。

 自分の周りで起こる全てのことは私とって意味があると思ってしまうことがある。そうすると本当に考えるきっかけは身の回りに溢れていて、毎日考え続けなければならずキリがない。本当にそんなことを考えるのにエネルギーを割くべきだったのか疑問なことも多い。

 考えすぎな人に「考えすぎるなよ」と忠告しても、その人は「よし、考えすぎないようにしよう。さてこれは考えるべきことかな?考えない方がいいことかな?しかし、考えるべきかどうか迷っている自分はすでにそのことを考えてしまっている!」などと考えこんでしまうので意味がない。と思っていたのだが、ひょっとすると、「考えすぎないようにしよう」と思い続けているうちに、次第に考えないでいいことが分かってくるものなのかもしれない。というのも、今日電気のことに気付いたとき、私は客観的に「このことの意味を考え何か学ぼうとしている自分」を認識した。これはかなりの成長だと思う。今までならそんなことに気づくこともなく考え込んでいただろうから。

ということで、生きるのを少し楽にしようと試みている。考えないことが果たして楽なのか、なんてことは考えない。いや、考えるべきなのか。だめだだめだ、また始まってしまう。さん、にー、いち、おしまい。

熊を愛す

「テディベアを愛する自分を愛していたのかも」と姉が言った。子供の頃持っていたテディベアの話だ。姉は何歳かの誕生日に親からもらったテディベアを「ティース」と名付けて可愛がっていた。その名前には確か意味があったはずだが忘れた。わたしは姉が羨ましかった。自分もテディベアが欲しかった。そういえば昔から家に古いテディベアが居た。上の兄が幼い頃に友達からもらったものだ。わたしはそれを自分の熊にすることにして、「ティモシー」と名付けた。

わたしはティモシーを可愛がった。服を着せ、いつも一緒に眠り、旅行にまでも連れて行った。しかしわたしの目はいつも姉が持っているティースに向いていた。ティースの方が可愛く見えた。もし姉がティースをわたしにくれると言えば、大喜びでティースをもらい、すぐにティモシーのことは忘れ去ったに違いない。

 それでもわたしにはプライドというものがあったので、姉の前では特にティモシーを可愛がってみせた。ティースよりもティモシーの方が絶対に可愛い、と贔屓してみたりもした。

最近になってやっと姉に白状した。わたしはティースを可愛がるあなたが羨ましかっただけなのよ、と。すると姉はこう言った。「知ってたよ。でも、わたしもティースのことをそれほど愛していなかったと思う。ただテディベアを愛する自分を愛していたのかもね」

 驚きと納得とが半分ずつ。そうだったのかと思う一方で、言われなくても分かっていた気もする。一体わたしたちは何をしていたのだろう。熊を愛さなかったわたしたちはいつか誰かを愛すのだろうか。

アイディアちゃん

ある秋の週末、私は親戚の2歳児と遊んでいた。

「ちょうだいどうぞゲーム」をした。落ちているどんぐりを広い集めて、「どうぞ」と渡してくれる。私は「ありがとう」と言ってそれを受け取る。しばらくするとこちらに手を伸ばしてくるので、今度は私が彼女にどんぐりを「どうぞ」と渡す。これを延々と繰り返した。私と彼女の間をどんぐりが行ったり来たりする。そういえば少し前は「ちょうだい」と「どうぞ」を逆に覚えていたのに、もう分かるようになったんだな、と驚く。そのときはおそらく大人が「どうぞ」と言いながら物をくれるから、「どうぞ」は物をもらうときに言う言葉だと勘違いしていたのだと思うが、いつどうやって、そうではないと気付いたのだろう。

 たんぽぽの綿毛を見つけた。一緒にふーふーしよう、と手渡したけれどどうしていいか分からないようだったので、綿毛をちょっと吹き飛ばして見せた。彼女はきゃっきゃと喜んで手を叩いた。そして驚いたことに、自分の手に持っているどんぐりをふーふーし始めた!残念でした。どんぐりにふーふーしても何も起こらないよ。けれどそこには子どもの純粋なアイディアが見て取れた。たんぽぽは、ふーふーしたらふわふわと綿毛が飛んで行った。どんぐりも、ふーふーしたら何か面白いことが起こるかもしれない。きっとこれまでの経験を総動員して予想したんだろう。

 そのとき20歳の私は、たんぽぽってこんな季節に咲くんだっけ。春じゃないのかな。これはきっと在来種じゃないな。それか異常気象で狂ってしまったのかな。どんぐりは持って帰ったら後で虫が出てきそうだな。なんてことをくるくる考えていた。これも私の経験を総動員した予想だから、10倍生きたって、することはそんなに変わらないのだと思った。

 さて、2歳と20歳のやりとりを見ていた更に大人な人たちは何を思っただろうか。私の親や、またその親の世代たちは。私の何倍も生きているその人たちからしたらまだまだ私も子どもなのだから、子ども同士のやりとりとして私たちを見ていたかもしれない。大人たちがどんな気持ちなのか今の私には分からないけれど、いずれ分かるようになるだう。

よく、大人になることは何かを失うことだと捉えて悲観視したり、逆に早く大人にならないとと焦ったりするけれど、なんだかそういうことがどうでもよくなってきた。大人と子どもの境界線は曖昧で、おそらく今の自分はちょうどその曖昧なゾーンにいる。大人と子どもの間で、いいとこ取りをしたっていいんじゃないか?

急に楽観的になり、ここで思考が停止したので文章もこのへんで書くのをやめる。

シャッターチャンス

「これから始まる夜のうちでは今が一番明るいよ」とその人は言った。夕暮れ時に屋外で記念写真を撮ろうとしたらすでにだいぶ暗くなっていて、明るいうちに撮っとけばよかったね、もう暗いからだめだね、と諦めかけたわたしに対して。なるほど、そういう考えはなかった。5分前より今は暗いけど、5分後よりは明るい。ちょっと笑って、薄暗い中2人で写真を撮った。

 

さて、冬が迫っている。それは、夏とは全く違う人格の自分との戦いで、憂鬱との戦いである。なぜ自分はこんなに冬の寒さに弱いのか、そもそもなぜ冬は寒いのだ、など考えても仕方がないことを考えているうちに時間が過ぎまた冬が近づく。やりたいことがたくさんあるのに、コンディションが次第に悪くなっていくのを感じて焦る。

 

ここで、ちょっと前に撮った写真のことを思い出した。少しずつ元気が無くなっていくということは、これからの中では今が一番元気ということだ。やりたいことをするなら今しかない。絶望を裏返してフラッシュをたき、シャッターを今すぐ切るのだ。

 

なんて熱いことを考えながらあくびして、のそのそと布団に潜り込んだ。今夜は寒い。

朝との遭遇

夜更かししてDVDを観ていたら5時頃になった。電気を消して目をつぶって、扇風機がぶうんぶうん唸っているのを聴いていた。なんだこれは、やかましいぞ。ただのモーターの音というよりか、鼓動のような、地鳴りのような響きだった。ああこの音をメモしておこうと思った。枕元のノートを開いてペンのキャップをはずした。部屋は字を書くには暗すぎたけれど、消したばかりの電気をもう一度つけるのはきっと明るすぎる。窓の外が少し明るかった。そうだ、窓を開けて外の明かりで書こう。小さいほうの窓を開けた。

 

 

 

朝焼け。

 

朝だ!!!!!

 

 

窓をあけたら夜があけたのか、夜があけたから窓をあけたのか。どちらでもないしどちらでもある。朝とわたしの追いかけっこ。

 朝焼けは雲に映った太陽なのか。少なくとも今日のはそんな風に見える。同じ時間に同じ太陽が地球のどこかに夕焼けを作っていることをおもう。

 わたしは絵は描けないのにスケッチブックなぞ持って、サラサラと描く。言葉でだって絵は描ける。

するどく黄色い雲の切れ目は、オレンジ、黄色、いやピンクだろうか。何色とも言えないグラデーションのようになっている。生きているような空だ。そしてじっと目を凝らすと、雲が動いている!全体的に少しずつずれていく!当たり前なのに!当たり前のことに驚くばかりだ。鳥だ!朝の興奮だ!寝ずに迎えた朝の興奮だ!冷めぬうちに食え、食ってしまえ。

 向かいの家の門灯が点いたり消えたりするのを眺めていた。蛍光灯が切れかかっているのか、センサーが朝か夜か定められずに揺れているのか。そうだわたしも、昨日と今日の区切りをつけそびれたまま朝を迎えてしまったんだ。グラデーションの空をスケッチするグラデーションのわたし。

いよいよ明るくなってきた。これから続いていく朝のうちで今が1番暗いのだと気づいてまた1人驚く。木がわさわさゆれて、車の音も聞こえ始めた。動き出したなあ。