ものはためし

書く訓練、備忘録

晴れの国へ

帰省するときは必ず、下宿の部屋を可能な限りきれいにして出て行くと決めている。戻ったときにあまりの汚さに失望して、また実家に帰りたくなるのを防ぐためだ。それで電車の時間ギリギリまで部屋を片付けているので、いつもバタバタする。

今回もやはりギリギリになって、駅まで走った。その途中、返しそびれていたレンタルDVDを返却する。ジブリとディズニーのアニメ。誰もが小さいころに一度は見ていそうな有名な作品だが、私はなぜか見たことがなかったものだ。人がゴミのようなのと、人間の世界にいきたいやつ。まあ今はそういう話ではないので感想はまた今度書く。

 下宿の最寄から実家の最寄まで、学割を使うと600円くらい安くなる。しかし緑の窓口に立ち寄る時間がなかった。次の電車は1時間後なので、咄嗟にICカードで改札を通り、電車に飛び乗った。せっかく学割を取っておいたのに、少し悔しい。600円くらいいいさ、1時間を600円で買ったのだ、と思うことにした。いいじゃないか、時間をお金で買うという発想ははなんだか、大人っぽい。いや、600円に大人っぽさを感じるあたり、まだまだ子どもかなぁ。なんて、考えながら。

 何度か乗り換えるうちに席にありつけたので、座って本を読んだ。いや、正確には、本を読もうとした。開いてたった3ページだけ読んで酔いそうになったから、本はすぐに閉じた。早すぎて、情けなくて、1人で笑った。

 同じ車両に、新快速は早いねぇ、いいねぇ、とひたすら言っている4才くらいの子どもがいて可愛かった。もっと小さい赤ちゃんが、父親に抱かれて寝ているのも可愛かった。子どもの寝顔は平和そのものだし、子どもの寝顔に平和を感じられる自分も平和だ。

 中学生のとき好きだった人の最寄駅を過ぎた。もう地元が近い。男子高生の会話の中から聞き取れた「きもい」のイントネーションが地元のもので、なんだか安心した。「きもい」でこんな気持ちになる時が来るとは思わなかった。最高にセンチメンタルだぜ。

 そんなこんなで電車の旅もあと5分。お腹が減った。お家に着いたら何をしよう。家族とおしゃべりしたいし、ピアノも弾きたいし、家の周りを散歩したいし、友達にも会いたい。とりあえず、久しぶりに「ただいま〜」と言うのが楽しみだ。

 

滑る箱に乗って

週末、1人ですこし遠くまで出かけた。電車で遠出することは滅多にないから、何もかもが新鮮だった。窓の外や車内広告を眺めたりアナウンスを聞いたりするだけで楽しい。きょろきょろしすぎて怪しまれないように気をつけなければならなかった。

昔の知り合いと同じ名前の駅を通過した。元気かな。この電車でばったり会ったりしないかな。そんな考えが頭をよぎった。ありえないのは分かっているけれど。

 たまに兄弟が働いている会社の広告を見つけると、兄弟を思い出して元気が出る。広告は決してそういうためにあるわけではないのに、不思議なことだ。

 キリンのような格好で寝ているあの人はどこへ行くのだろう。通路をふさぐ大きなスーツケースには何が入っているのだろう。窓の外を眺めているおじいちゃんに、孫はいるのかな。いるのなら、何歳なんだろうか。

 度の過ぎた好奇心や想像力は変態になる。私は目をつぶった。

新しい服とちょろりん

新しく買ったお気に入りの服を着て学校に行ったけれど、色々と面倒になったので午後の授業をさぼって本を読んでいた。海の向こうの街まで見渡せて、風がよく通る石の段々に座って。

小さくてきれいなとかげが前を横切った。尻尾が青くきらっと光っている。私は突然『ちょろりんのすてきなセーター』を思い出した。子供の頃に大好きだった絵本だ。

とかげのちょろりんが、洋服屋さんのショーウインドーですてきな春色のセーターを見つけて、そのセーターに夢中になる。ちょろりんはランプ職人のおじいちゃんの元で一生懸命働いて、もらったお金をにぎりしめて洋服屋さんに向かう。ちょろりんを待っているのはヒキガエルのびきびきおばさん。どっしりしていて、なんだかこわい。ちょろりんは勇気を振り絞って、びきびきおばさんに、セーターを下さいと声をかける。びきびきおばさんは笑う。いいけどあんた、それ、へび用のセーターだよ。へび用のセーターには袖がないから、とかげのちょろりんには着られない。ちょろりんは悲しくて悲しくて泣いてしまう。それを見たびきびきおばさんが、セーターをとかげ用に仕立て直してくれる。ちょろりんは大喜びする。

 

確かこんなお話だった。新しいお気に入りの服を着た私の前に現れた、何も着ていないきれいなとかげ。ちょろりん、もう春色のセーターの時季は終わったね。今は暑いから何も着てないのかな。ご自慢の尻尾をきらきらと振りながら、どこへ向かうの。私も連れて行って。

誰の目からどこへ矢印が向かっていようと

心臓が痛い。厳密にいうと、痛いのは胸の右側だから、心臓ではない。いや、どうだろう。心臓が胸の左側にあるというのは間違いだと聞いたことがある。真ん中にあるけれど、左側に少し出っぱっているので、左に寄っている感じがするとか、そんなところだった気がする。まあどちらでもいいのだ。胸がきりきり痛む。とにかくなんとかしてくれ。

 

レポートを書こうと思って、図書館に来た。何も考えずに、プリンターの目の前にあるパソコンに陣取ってしまった。書いている後ろでプリンターが絶えず紙をはきだしている。振り返ると印刷待ちの人と目が合った。いつからこっちを見ていたのだろう。自分が書いている内容は読まれてしまっただろうか。何度も推敲して仕上げた文章を読まれるのも恥ずかしいのに、書いている途中の文章や、その姿を見られるのはもっと恥ずかしい。

 「他人の目を気にしすぎないこと。人は自分が思っているほど自分のことを見ていないんだよ。気にするだけ無駄だよ」

 先日、こんな内容の文章を読んだ。少し元気が出た。実行しようとは思う。多分さっき目が合った人はたまたまこっちを見ただけで、私の文章には興味がない。自分は自分のレポートの心配をしていればいいのだ。レポートを、書こう。

 

友人から「影響されやすいタチだよね」と言われた。そしてその言葉を聞いて、確かに自分は影響されやすいな、と思ったことがまさに私の影響されやすさを表していると思う。

 

急に、自分には意思というものがないのかもしれないと不安になった。

 

あの人は浅はかだよね、あの人のやり方はよくないよね。そういうちょっとした言葉を聞くたびに、私は、なるほどそうなのかな、と思ってしまう。

逆ももちろんある。ある人が、別の人を指して「彼は天才だ」と言った。私はその人のことを、すごい人だなあとぼんやり考えてはいたけれど、天才と思ったことはなかった。しかし急に、その人が天才に思えてきた。本当に、天才な気がしてきた。

だれかの言葉によって、自分の中で人の評価が変わってしまうことが怖い。良い方向だろうが、悪い方向だろうが。私にとってそれは、自分の意思が自分によってコントロールされていないことを意味するように感じられて、恐ろしくなってしまうのだ。

しかし耳を閉ざすわけにはいかない。

 人に影響されやすいという自分の性質は、きっとすぐには変えられない。自分の意思をコントロールできないということに怯え続けなければならないのか。いや、誰と関わりを持つか、誰に大きく影響されるかは自分で決められるはずだ。色々な人の意見を聞こう。その上で、この人に影響されたいと思える人と、できるだけたくさん関わろう。

 誰かに言われたのではなく、自分自身でこういう結論に至ったのだから、やっぱり自分にも意思はあるのかなと思った。

バンザイ

バンザイのポーズをして寝るのが好きだ。よく小さい子供がやっているイメージだが、私の場合小さい頃からの癖というわけではない。高校生くらいまでは非バンザイポーズで寝ていた。それがある時ふと「小さい子供はバンザイなんかしてよく眠れるな、一体どんな気分なんだろう」と思い試してみたところ、見事にはまってしまったのだ。

 もう長いこと、寝るとき以外にバンザイしていないように思う。そもそもバンザイとは何か。バンザーイ!と言いながら両手を高く上げる。この文化を知らない人にとっては、滑稽に映るのではないか?

 気になってバンザイで検索したら、恐ろしい記事を見つけてしまった。大人がバンザイポーズで寝るのは身体にとても悪いらしい。知らなければよかった。今夜もバンザイで寝たいのに。ショックなのでもう書くのを辞める。バンザイの歴史など知りたい人がいたらぜひWikipediaを読んで頂きたい。さようなら。バンザイポーズバンザーイ。

青みがかった灰色のとき

雨だ。目が覚めたらお昼だった。また午前の授業を休んでしまった。今日も、朝がなかったな。午後の授業には行かなければ。気持ちは急いても身体がゆっくりしか動かない。階段をのろのろおりて門を開ける。

2つの笑い声が近づいてきた。見ると、肩車をした親子が坂を登ってくる。父親の肩に乗った4才くらいの男の子が大きな傘をさしている。父親がしきりに「がんばれ〜」と言う。いや、がんばるのはあなたではないか、と思ったが、子どもが大きな傘をさすのを応援しているのかもしれない。そして2人は、始終楽しそうに笑い声をあげているのであった。

思わず笑顔になってその姿を見送った。後から考えると、平日の真昼間に、スーツを着た若い父親と小さい子どもが歩いているのは少し不思議ではある。何か特別な日だったんだろうか。

 

幼い頃の自分のことを考えた。父親に肩車をしてもらったか。してもらった気もするし、そんなことはなかった気もする。あまり記憶にない。代わりに、母親と1つの傘に入って「太った人ごっこ」をしたことを思い出した。雨の日に駐車場から、少し離れた家まで歩くときの記憶だ。傘からはみ出ないように、ぎゅっとくっついて歩く。「くっつけば、太った人くらいのはばになるから、1つのかさでよゆうだね」小さい私はキャッキャと笑った。

 

スーツの父親の肩にのって大きな傘をにぎりしめていた男の子も、いずれ大人になる。雨の日にふと、今日のことを思い出すだろうか。

 

 

今日も特にオチはない。この出来事から何も学んでいない。センチメンタルの一言で片付けてしまえるこの瞬間を、ただ、言葉にして残しておきたかった。それだけ。以上。

10年前の日記を今書く

梅雨の夕方。キッチンの上だけ電気がついていて、部屋の残りの部分は、うす暗い。大きな食卓にひじをつくと、湿気で少しぺたっとなる。いすからぴょんと降り立って、これまた湿気を帯びている床を、はだしで歩く。わたしはお母さんに玉ねぎを炒めさせてもらう。先に宿題をやればいいのにと言われる。わたしは、いいの、あとでやる、と答える。宿題よりも、野菜を炒めるときのじゃんじゃんいう音の方が、ずっと好き。

 

窓から外の雨を眺めていると、こんな情景が浮かんできた。小学生くらいのときの記憶だろうか。しかし母親が私に宿題を済ませたか確かめてくるようなことはあまりなかった。もしかしたら後から自分で作った偽の記憶なのかもしれない。どちらにせよそれは、わざわざ日記に書くほどのことでもないくらいの、日常の一部である。それなのに、ふとした瞬間に浮かんできて、懐かしさとともに幸福感をもたらすのはなぜだろう。

 

 絵が描けたらいいのに。こんな風にイメージが浮かんできたときいつも思う。机に触れた感触や部屋の空気、フライパンの音、においなんかをそっくりそのままアウトプットする方法があればなあ。絵だって全ては表現できないし、そもそも絵は描けない。今のところ他によい方法が思いつかないので、仕方なく言葉にしている。まあそれはそれでいいのかもしれない。楽しいから、なんでもいいや。もっと上手に書けるようになったら、もっと楽しいのではないか。そして、たくさん書いていればうまく書けるようになるのではないか。そんな簡単な理由で、今日も書く。