ものはためし

書く訓練、備忘録

夜空

帰省した。駅からバスに乗る時間しか伝えていなかったのでいつ着くか分からなかったはずなのに、バス停まで母が迎えにきてくれていた。一緒に家まで歩いた。
今日は星がきれいだよと教えてくれたが、それはおそらく母が星好きというよりも、私が星好きなのを知っているからであった。のではないかと思う。そういえば父は星好きで、私に星の本を見せてくれたり一緒に星を見に出たりしていた。私は目がいいけれど父は目が悪くて眼鏡をかけていた。だからあの頃一緒に見ていた星のうち私にしか見えていなかったのもあるんじゃないかと今更ながら気づいて驚く。でも何だってそうだろう。視力に限らず視野とか背の高さとか興味とか、人が違えば全部違うから見えてるものも全然違うはずだった。指をさして同じ方向を見ていても実際に見えている世界は同じではないのだ。

母と一緒に空を見上げた。星はたくさん見えたが子供の頃に覚えたはずの星座はすっかり忘れて、有名ないくつかしか見つけられなかった。母は、線がないとどれが星座か分からんよね、と言った。線というのは星座早見表なんかに書いてある星と星を繋ぐ線のことである。それは誰もが一度は思うことかもしれない。そういえば昔母が満月を見て、うさぎが一匹しか見えん、と不満そうに言っていたことを思い出した。月のうさぎは元から一匹なのに、一体何匹見ようとしたのかと思って私は笑った。

満月といえば何年か前に面白いものを見た。夜空があまりに綺麗なので、下校中の自転車を降りて空を見上げていた時の話である。飛行機のライトが点々と空を突っ切っていた。ぼんやり目で追っていると、ちょうどそれは月に差し掛かった。そして満月のまんまるい光と重なったとき、それまでライトしか見えていなかった飛行機のシルエットが一瞬、きれいに浮かび上がったのである。満月と飛行機が重なるのが珍しいことなのかは分からないが、ちょうど日のその時間、その場所で見上げていなければきっと見えなかっただろうから、それはものすごい偶然に思えた。もう二度とその様子は見られないだろうと思った。それは大学受験を控えた冬であった。私はなぜかその偶然に出会えた幸運から、これは大学に受かるな、と思った。

それと同じ広場で今、夜空を見上げていた。隣では母が、あんたが大学に受かったのは飛行機を見たからじゃなくてたくさん勉強したからだよ、というようなことを言っていて私は最もだと思ったけれど、もし飛行機を見ていなかったら受かっていなかったかもしれないとも思った。

徒然

今日外を歩いていたら自転車に乗った人が大声で歌いながら通り過ぎて行った。とても楽しそうだったのでなんだかこっちまで嬉しくなった。

一般的に、大声を出しながら移動するのはお行儀が悪いことだったりする。だから、それを見てどう思うかはその時の自分の状態によると思った。今日の私は元々気分がよかったので、その人を見て余計に気分がよくなったけれど、場合によってはその逆もあり得た。何かを見て平和だなと思うとき、そう思える自分の心が平和なのだと気づく。

犬が突然吠えた。見ると近くの建物に外階段が付いていて、その三階部分に犬がいた。ちょうど散歩中の別の犬が私とすれ違って行ったので、その犬への挨拶なのかもしれなかった。すれ違った犬はフサフサした大きい犬で、余裕の笑みを浮かべながら(というように見えた)尻尾をふって歩いて行った。三階の犬も大きかったがこちらは毛が短かかった。わんわんわん、ではなく、わおーんわおーん、という鳴き方だったので私は思わず「遠吠えだ」と言った。隣には友達がいた。

馬のことを思い出した。学校を歩いているときに急に近くで馬がいなないた。私はそのとき1人だったのに思わず「いなないた」と声に出して言ってしまった。それは少し滑稽だった。馬が走っているのを見て思わず「走った」と言うことはないのに、なぜいなないたときは言ってしまうのか。それは「いななく」という言葉があまりに非日常的だからなのかもしれない。滅多にない「いななく」という言葉を使うのにふさわしい時が突然現れたから、思わず使ったというような。「遠吠え」もそれに似ていると思った。

そういえば、「遠吠え」は確か文字通り遠くに聞こえるように吠えているはずだ。さっきの犬は通りすがりの犬とそんなに離れていなかったから、もし挨拶ならそんな吠え方はしなくてよかったと思う。だからやっぱりあれは挨拶ではなかったのだ。若しくは、そもそもあのわおーんわおーんが遠吠えではなかったのかもしれない。

 

家に帰った。しばらくするとどこかから犬の鳴き声が聞こえてきた。よく聞く鳴き声だがどこの犬かは知らない。もしかしてさっきの三階の犬かなと思ったが、それよりも近くな気もしたし、方向も違う気がした。どっちにしろ、犬はそこらじゅうにいるし、どの犬が吠えているかは問題でなかった。

 

隣の部屋の住人が帰ってきた。友達を連れていた。料理を始めた。うちは壁が薄くて生活音がかなり伝わってくるのでそういうのが全部分かってしまうのだが、私はそれが全く気にならない。たまに大音量のテレビや楽器の音が聞こえてくるがそれも気にならない。むしろ近くに人の気配がするのが嬉しかったりする。人によってはそれがストレスになったりするだろうが、私はそれがないので我ながらありがたい。ついでに隣の住人も、隣が私でラッキーだと思う。ただ、向こうの音が聞こえるということはこちらの音も聞こえるということである。私は自分の生活音を聞かれること自体は気にならないのだが、相手がそれをストレスに感じているかもしれないので気をつけなければと思う。

 

冬の夜というのはどうしてこんなに静かなのかしらと考えたが、夏の夜が今よりうるさかったかどうかと言われると分からない。多分今も夏と同じくらい音がしているが窓を全部閉めているから聞こえないだけなんじゃないかと思う。でも夏は虫が鳴いているけれど冬はいないのでやっぱり冬のほうが静かなのかもしれない。

どうしても確かめたかったわけではないがちょっとだけ窓を開けてみたら外に洗濯物を干したままなのに気づいたので急いで取り込んだ。それは明日が雨の予報だった気がするからで、普段ならそのままにしておいたと思う。寒すぎて外の音を聞くのを忘れた。冬の夜が静かかどうかは分からないが、寒いのは確かだ。

最近徹夜したりコタツで寝たりを繰り返していて、今夜こそきちんと布団で寝ようと決めていたのに、まだコタツにいる。周りでインフルエンザが流行っているようなので体調には気をつけなければならない。帰省する直前にインフルエンザを発症して帰省できなくなり、病院にも行けずお正月は下宿で1人苦しむという最悪の事態を想像した。これはなんとしても避けなければならぬ。そのためには今すぐ寝たほうがいい。私は私にお説教じみたことをして、ようやく立ち上がった。

わるいひと

自分にとっていいことが他人にとってもいいこととは限らず、また同様に自分にとって悪いことが他人にとっても悪いこととは限らない。しかし自分にも他人にもいいことや悪いことはある。つまり色々なのだ。このことをよく分かっているはずなのに、未だに違和感がある。

 例えば、あなたにはAという関係良好な友人がいるとしよう。特に悪いことをされたことはないし仲良くできているので、Aは良い人だと思う。しかしBという別の友人によるとAはBにひどいことをしたらしい。これを聞いたあなたの中でAの認識はどう変わるだろうか?仮に、Bに話を聞いたあなたがAのことを「悪い人だ」と思い始めたとしよう。このとき起こっていることとして2つの解釈がある。

 ⑴あなたがBから話を聞くまで、Aは確かに良い人だったが、話を聞いてから悪い人に変わった。(良い人だったことも悪い人なのも正しい)

⑵Aはずっと悪い人で、Bから話を聞くことであなたはその真実に気付いた。(良い人だったのは間違いで、悪い人なのが正しい)

 ⑴の場合、Bとあなたが会話したことで、Aは何もしていない間に良い人から悪い人に変わってしまうということがおもしろい。

⑵の場合、もしBから話を聞くことがなければ真実に気づくこともないため、あなたはずっと、Aが良い人だと思い続けるはずだ。この場合でもAが悪い人だということが真実といえるのか。真実はあなたがBと話すか話さないかということによって変わるものなのか。とまあ色々疑問が膨らむ。

 さて、この話がここまでややこしくなるのは、「真と偽」、「良と悪」という2つのはっきりしない概念がごちゃまぜになっているからだと気付いた。まず1つづつ定義しなければ。

かかわるこころ

ある人が散髪に行った。そこで美容師に、普段何のシャンプーを使っているか尋ねられたが、覚えておらず答えられなかったという。美容師は驚いて「自分が使っているシャンプーを覚えていないなんて信じられない」という内容のことを彼に言ったらしい。じゃぁ、と彼は思った。あなたはいつも使っている銀行のATMがどのメーカーのものか知っているのか、と。

なぜそんなことを思うのかというと、その人はATMの販売の仕事をしているからだ。美容師がシャンプーの種類を知っているのと同様に、彼はATMの種類を知っている。一般的にはATMの種類よりも、シャンプーの種類を知っている人の方が多いとは思うが、ここではそのどちらが多いとか少ないとか、いいとか悪いとかそういう話ではない。

何かに関心があるということは、何かに関心がないということでもあると思う。自分が何に関心を持っているかは分かりやすいけれど、何に関心を持っていないかはなかなか気づかない。それはおそらく、何に関心がないかということ自体に関心がないからだ。

 

ところで、関心がないところから関心を持ち始めるというのは、一体どういう心の動きなんだろう。人に関心を持たせるだけのパワーが自分にあるといいのにと思う。

さようなりませんが

たまに電車に乗ると楽しい。全くばらばらな人々の「気」を吸いこむ。かなりエネルギーを使うけれど、それは後で考え事をするための種を集める作業だ。

 不思議なことに、電車には必ずきれいな女性が乗っている。きれいな女性が着ているコートを眺めながら、今年はどんなコートを買おうか、変わった色がいいな、と考える。

 ひとつの場所を去るということはまた、別の場所へ行くということでもある。しかし色々な道具を使えば瞬時に二箇所を行ったり来たりできるし、同時に二箇所に存在するなんてこともできる。だから何なのだという話だけれど、要するにSNSは難しい。

 

 「君がいない世界なんて僕にとっては意味がない」なんて、yuiは歌うけれど、自分も本当にそう思う日が来るとは思わなかった。さようなら。

生きる

外に出て日向ぼっこをしていたけれど、雲が多くて次第に身体が冷えた。ぼーっとして勉強が手につかないので携帯をいじっていたら急に充電が切れそうになった。60%からいきなり20%を切るなんて、私のiPhoneもそろそろ寿命なのかもしれない。

寿命といえば、明日死ぬなら今日なにをするかという議論を思い出す。そもそも私は明日死ぬつもりはないのだが。とはいえ一応考えておいて損はないだろう。死ぬ前にやっておきたいことは色々あるので困る。例えば大好物を食べるとか、親に諸々のお礼を言うとか、好きな人に好きというとか。しかし明日死ぬなら好きな人に何も言わない方がいい気もする。明日死ぬから今日好きと言うのは私の都合で、相手にしてみたら好きと言われた次の日に死なれるなんて勘弁してくれという感じではないか。告白が成功して死ぬのも嫌だし、失敗して死ぬのも嫌だ。まあどちらにせよ死ぬのは嫌だ。ずうずうしく明日も生きるつもりなので今日何をしてもいいことにした。みかんでも食べよう。

考えすぎを考える

電気をつけたまま寝落ちしていたけれど、起きたときに太陽の光で部屋が明るかったのでそのことにしばらく気づかなかった。

このことが何を表しているか考えた。例えば幸せとか。同じ電気がついていても、外の明るさによって体感が違うように、同じ出来事でもその時置かれた状況によって幸福感が違うんだよな、というように。他にも、気づかないうちに増えている電気代のことなど。

 自分の周りで起こる全てのことは私とって意味があると思ってしまうことがある。そうすると本当に考えるきっかけは身の回りに溢れていて、毎日考え続けなければならずキリがない。本当にそんなことを考えるのにエネルギーを割くべきだったのか疑問なことも多い。

 考えすぎな人に「考えすぎるなよ」と忠告しても、その人は「よし、考えすぎないようにしよう。さてこれは考えるべきことかな?考えない方がいいことかな?しかし、考えるべきかどうか迷っている自分はすでにそのことを考えてしまっている!」などと考えこんでしまうので意味がない。と思っていたのだが、ひょっとすると、「考えすぎないようにしよう」と思い続けているうちに、次第に考えないでいいことが分かってくるものなのかもしれない。というのも、今日電気のことに気付いたとき、私は客観的に「このことの意味を考え何か学ぼうとしている自分」を認識した。これはかなりの成長だと思う。今までならそんなことに気づくこともなく考え込んでいただろうから。

ということで、生きるのを少し楽にしようと試みている。考えないことが果たして楽なのか、なんてことは考えない。いや、考えるべきなのか。だめだだめだ、また始まってしまう。さん、にー、いち、おしまい。