ものはためし

書く訓練、備忘録

わかりにくい

ここのところ生活のバランスが悪い。何かをしすぎたと思ったらまた別の何かをしなさすぎている。今のところわたしにはまだ理性があるので、この状態をまずいと思えるわけです。けれども心のどこかでは、バランス悪く生きたい、つまり何かひとつだけにすっかり依存してしまって何にも考えずに消えていきたいという願望がある。そしてわたしはこの話をずっとしている。

道に立つアルバイトをした。ただ立っていることだけが求められた。寒かった。

近くに病院があったので救急車が頻繁に通った。緊急車両がサイレンを鳴らしながら通るときわたしは心の中で「がんばれ〜」と応援することにしている。これは働く車そのものに向けての応援であり、乗っている働く人および緊急事態真っ只中の当事者たちに向けての応援でもある。しかし本当のところ自分自身に向けての励ましというのが大きいようにも思う。わたしは前まで緊急車両を見ると勝手に辛いことを考えて悲しくなってしまっていたが、ここ数年、心の中で応援することによりその悲しい気持ちをプラスの感情にかえて立ち向かえるようになったのである。

 

ああいうのもこういうのも、自分だけが感じていることなのか分からないからこうして表現したらひょっとするとドン引きされるかもしれないしはたまた多くの共感を得られるかもしれないし、どちらがいいということもない。

 

道行く知らない人にコンビニのコーヒーをもらった。寒くて疲れてガタガタだったので大変ありがたく、心も身体も温まるという思いでいただいたが、後で考えるとあれはよかったのだろうか?コンビニのコーヒーは缶コーヒーみたいに密封されていないので簡単に毒を盛れる。

いやいや、何のために毒を?ドラマの見過ぎである。

人を疑うことや計算で物を言うことを良しとせず、疑うくらいなら純粋な心のまま毒を盛られて死んだ方がましだと思っていたときがあった。純粋さに拘りしがみついていた。今は、どうだろう。自分が純粋だとかそうじゃないとか考えを巡らせている時点できっとすでに純粋ではないということだけは確か。