ものはためし

書く訓練、備忘録

クレープでは怒ってくれないんだ

友人とファミレスに行った時、あまりお腹が空いていなくて何を食べたいか自分でもよく分からなかった。私はそういうことがよくある。それで、メニューをいつまで経っても選べないので、いっそのこと誰かが勝手に選んでくれたらいいのに、と思った。その後、かといって選んでもらったものが全く好みじゃなかったらそれはそれでなんか嫌だなと思った。それで「勝手に選ばれるのは嫌だ…」と小声で言ったのだが、それ以前の私の思考は脳内で行われていた仮定の話だったので、友人に「一体何に怯えてるの?」と笑われてしまった。ほんとだわ。私は一体何に怯えているんだろうね。

 

友人(男)とクレープ屋さんに行ってそれぞれ別々のトッピングを選んだとき、区別できるようにお店の人が印をつけて渡してくれた。そうしながら友人に「絶対間違えないようにね!食べ物で女の子を怒らせたらだめだよ、ほらプリン食べちゃってけんかになるとかあるやんか」と釘を刺していたため、「あ~、プリンは怒りますねえ!」と横から言ったら、クレープ屋さんが「クレープでは怒ってくれないんだ…」とつぶやいていた。なんか申し訳なかったが後から笑いが込み上げてきた。あと、女の子が甘いもので怒るっていうのは偏見だぞ!!!

 

シロップ漬けにしていた檸檬を味噌汁に入れたらめちゃくちゃ美味しいスペシャル味噌汁になった。マイホーム願望は特になかったのだが、庭に檸檬の木を植えて収穫したいがために土地の購入及びマイホーム建立を決意(何年かかるんだ)。

あれ?家には建立ってことば使わないんですか?あら…わかりました。

 

目指すところや生き方の違う者同士、互いを否定せずに生きられないものか。なぜそんなことを急に思ったかというと、もののけ姫を観たからである(注:映画館でジブリの再上映を盛んにやっていた時期に書いた。)。どうしても合わない相手とは関わりを待たないのが1番だが、それでも関わりを持ちたい場合、持たなければならない場合もある。よくわからないけど、調子がいいときだけ近づくのが安全かもね。

 

おわり

種を植える

久々の友人から連絡が来て、やりとりしていたらその晩夢に出てきた。その友人ともう1人知らない人とわたしと3人で、回転寿司にいた。そのあと一旦起きて二度寝したときまた夢を見た。知っている人をとっ捕まえて手錠をかける夢だった。知り合いを逮捕とかしたくなくてかなり辛かった。まあわたしは警察じゃないので現実ではありえないのですが。

 

だいぶ前の話になるが、キッチンのシンクを掃除しようと思って排水溝の蓋をあけたら、ネットにもやしのようなものがたくさんあった。思えばその数日前にメロンを買ってきて食べたのだが、その時適当にシンクに吐き出した種から芽が出ていたようだった。メロンの芽!?

過去にわたしは色々な種を発芽させた経験がある。例えば藤。子どもの頃外で遊んでいるときに近所の犬が散歩で通りかかり、撫でたりしていたらその犬が何かモグモグしていて、飼い主がコラッと言って吐き出させたらそれが藤の種だったわけです。わたしは幼い頃から犬が苦手だったがその犬だけは大人しく(おそらく彼女は自分を犬と思っていないタイプの犬だった)、わたしは近づくことができたのだった。わたしはその種をもらい、家に持ち帰って大事に育てた。なんとすくすく育ち、今や実家の庭に藤棚を形成している。しかも祖父曰く「いい種類の藤」らしく、どこぞの庭に植えられたいい藤の種を犬が見つけてきて食べていたと推測される。

それから、枇杷。これまた子どもの頃、もらいものの枇杷を食べておいしかったので「また食べたい」という思いから種を庭に植えたところ、みごと発芽したのであった。実家の庭にはスペースが足りないとのことで、苗を鉢に入れて学校に持って行ったら用務員さんが校庭に植えてくれた。そういうわけでわたしの母校のすみには今でも枇杷の木があり、立派な実もなるのです。

そういった経験が皆によくあることなのかわからないけれども、わたしは子どもの頃の成功体験から未だに種を見ると植えたい気持ちに駆られる。

とはいえメロンの発芽に関していえば全くそんな気はなく、どちらかというと自分のだらしなさの象徴ともとれ、恥ずかしい気持ちがないではない。しかし面白いので色々な人にこの話をしている。

トンビと目があったよね

少し前の旅先。

雪の残る展望台で、おそらく生まれて初めて、コイン式の双眼鏡に百円玉を入れて覗き込んでみた。自分のまつ毛がレンズに当たって虫のように見えて邪魔だった。あ!車だ!遠くの車がはっきり大きく見える!などと言ったがわざわざ百円払って他人の車を見てどうする。景色を見ねば。しかし霧が出ていて、霧がかった景色は望遠で見ても霧がかっているのであった。

旅館の朝、中居さんが入ってきて、新聞紙です、と言って差し出した。新聞紙というとその紙そのものを指すことが多く、情報のことを指すのなら新聞というように思ったので、(新聞を読むと言うが新聞紙を読むとはあまり言わないし)なんだか面白かった。

帰りの特急までまだ時間があったので、誰だかのゆかりの公園に行ってみた。そこにはまた展望台があり、プールの飛び込み台みたいに唐突に、階段だけで構成された建物だった。4階か5階分登ると、日本海が見えた。昨日の別の展望台では霧が出ていて見えなかった日本海だった。これは登ってきてよかったな。私たちはベンチに腰掛けてチョコレートを一欠片ずつ食べ、ペットボトルの水を飲んだ。公園に来る道すがら前を通った浄水施設の建物が真下に見下ろせた。屋上がテニスコートになっており、おじさんたちが休日を楽しんでいた。ふと見上げるとトンビが飛んでいた。羽ばたかずに気流に乗って私たちの頭上を舞っている。狙われている!私たちはそそくさと階段を降りた。

そんなことがあったのです。

豆と一緒に寝る

職場のぞうきんの上に何かよくわからない羽虫が横たわっていたので片付けようとして近付いたら、胴体の色が青いキラキラで、一人で眺めるのはあまりにもったいなく、誰かに見せたいと思った。ぞうきんごとつまみ上げて上司のところに持って行って見せたところ、おーと言って引き出しから虫眼鏡を取り出して見ていた。わたしも虫眼鏡を貸してもらいよく見てみたけどやはりきれいだった。
なるほど虫眼鏡というのはこういう風に使うから虫眼鏡なんだなと思った。
隣の島の人が我々の様子を見て、「平和な午後だなぁ」と言った。

 

人の家に行ったとき、新しいコーヒー豆を買ったというので嗅がせてもらったところ、いい香りのあまり離せなくなり、「豆と一緒に寝る!」などと言ってずっと抱えていたが、結局寝るとき邪魔になったから返した。豆はすぐ冷凍庫にしまわれた。

 

川を渡り始めたとき、向こう岸の方に鴨が泳いでいるのが見えたのでわくわくして近づいたが、よく見ると死んだ魚だった。鴨くらいの大きさの魚が浮かんでいるところを想像していただきたい。魚というのはもともと空気に触れて生きているものたちと身体の作りが全然違っていて見慣れないし、なんというかグロテスクな見た目だとわたしは思う。だから勢いよく動いて、かつ水の中にいるくらいがちょうど見ていて楽しいのだ。しかしそれは大きい上に動いていないししかも浮いていたから、そんなに見ない方がいい、と思ったのだけど、橋の真下にそれが流れ着くまでじっと見てしまった。

 

七夕だというのに雨が激しく降っており、昼過ぎですでに夜くらい暗かった。エレベーターで一緒になった同僚に「夜みたいに暗いですね」と話しかけられて、全く同じことを言おうとしていたのでおもしろかった。エレベーターでの会話というのは、目的地に着くまでのかなり限られた時間で話を終えないと、着いた時変な感じになってしまうので技術を要する。1往復か2往復くらい。それで必然的に天気の話か、仕事忙しいっすか、ええまあ。という感じの会話になるんですな。

全く知らない人とエレベーターに乗り合わせたときは会話もないので楽かと思いきや、手持ち無沙汰でなんとも居心地が悪い。そんなときには階数の表示なんかをじっと見つめてやり過ごす。最近は、上の方に書いてある定員の表示を見て時間を潰すことを覚えた。たいてい想像以上に多い。どのフォーメーションで乗ればその人数がこの空間に収まるのか?誰も荷物を持ってない前提かしら。子どもの数も入れていいのならなんとかなるだろうか?肩車とかしてもいいん?んなわけないか。

「チーン!一階です」

動物の観察

毎朝隣の家の給湯機の上で寝ているねこ。朝日に照らされている。

エビフライみたいな形にのびて寝ているねこ。

警戒心の弱いねこ。触れそうなほどの距離になってようやくわたしに気付いて、飛び上がって逃げる。

川にいるオオバン。鴨のように見えるが、鴨のようにスイスイとではなく、首を前後に振りながらギコギコ泳ぐ。全身黒い。

調べたら鴨とオオバンは水かきの種類が違うらしい。鴨は指と指の間をつなぐように水かきがある。オオバンは指それぞれが独立して水かきのようになっている。鴨のタイプのあしゆびを蹼足(ぼくそく)、オオバンのタイプのあしゆびを弁足(べんそく)という。弁足の見た目は爬虫類の鱗のようで結構気持ち悪いけれど、蹼足よりも地面を歩きやすいらしい。もし人間の足をやめて水かきのついた足にする機会があった場合、どちらのタイプを選ぶかの参考にしてください。

歩きスマホの飼い主に引きずられるように必死で歩く犬。すれ違うとき絶対に目が合う。

人んちの木からメジロが一斉に飛び立った。5羽くらいいた。

川辺で寝ている鴨。片足で立って、頭を身体に埋め込むようにしている。利き足とかあるんだろうか。

寂しがりやの代名詞でもあるウサギがたった一羽で餅をついているとは考えにくいので、月のウサギは見えないところにもっといると思う。

雑談していると唐突に素振りを始める男がいる。スクワットする人もいる。

人間も動物である。

出会えてイェーイ!2020

今年知ったもの、買ったものを書く。めんどくさくてリンクとかは貼ってないです。すみません。では早速。

 

●ぬかどこ

楽しい。おいしい。ペットみたいなものです。そして、ぬか漬けやってるだけで"丁寧な暮らし"をやっている気がしてくる。手を突っ込んでかき混ぜなくてもいい、ジッパーバッグに入ったタイプのやつにしたから手入れが楽だった。それでも一度だめにしてしまい、もう一度同じぬかどこを買った。漬けると美味しいのは、かぶ、きゅうり、豆腐。

 

●かぶ

かぶが美味しいものだったこと、知らなかった。ぬか漬けを始めたのをきっかけに、色々な野菜を試すようになって、かぶのよさを知った。具体的にいいところを挙げると、思わず撫でたくなるすべすべの表面と、ほんのり甘い味、加熱するととろとろに柔らかくなるところ。全体的に優しい感じがする。かぶが野菜の中のダントツ一位で、二位はかぼちゃかなあ。

 

●Kitri (アーティスト)

ピアノを連弾しながら歌う姉妹のユニット。友人が教えてくれた。一度聴いたら虜になってしまい、知って以来毎日聴いている。

Kitriのいいいところは、音が綺麗なところ。あと、クラシックを取り入れているところ。Kitriをかけて暮らしていると、何も変わらぬ日常のはずなのに、自分が岩井俊二監督の映画の主人公になったような気分になれる。わたし、ピアノの音ってすべての楽器の中で一番好きだと思う。その次が人の声。だからきれいなピアノと一緒に人が歌ってるのって本当にいい組み合わせでハマってしまった。「この音が好き」と気づけるのってかなり幸せなことなんだなと思った。

ところで、わたしは普段読書をするときに歌詞のついた音楽は聴かないことにしているのだが、それは歌詞と文字の言葉がぶつかってしまうからである。その点Kitriの歌は限りなく透明に近い(歌詞が観念的であることと、歌声が優しいことによる)ので、本の言葉とぶつかることがなく心地よい。そういうわけで、わたしはどんなときでもKitriを聴いた。特に、『人間プログラム』というアルバムには、後述する村上春樹の『1Q84』という長編小説を一気読みした頃にはまったので、そのアルバムは自ずと1Q84のBGMとなり、後で聴いても1Q84の世界を思い出す。ハッ。村上春樹の話になっちゃったじゃん。

 

●ヒーリングっと!プリキュア (アニメ)

今年、人生で初めてプリキュアを観た。どういうわけかテレビを買い替えて一番最初に何の番組を録画しようか、となったときにプリキュアを予約したんだけど、詳しい経緯はあまり覚えていない。5月か6月に観始めたところ、すでに今シーズンが始まって数ヶ月経っていたのにも関わらず、コロナ関係で収録の遅れが発生して最初の方の回が再放送されていたので、ありがたいことに追いつくことができた。ちなみに、この記事のタイトルになっている「出会えてイェーイ」というのはプリキュアのEDの中に出てくる歌詞です。こんなばかっぽい表現あるか!?と思うんだけどそれが非常に簡単にハッピーになれる感じでいいんですよね。

プリキュアが好きと言っても実は変身後の闘いにはあまり興味がなくて、仲間同士楽しそうにしている平和な人間シーンがいい。もう変身も闘いもしなくていいから、ずっと仲良くしてるところだけ放送してくれないかな。動物園に行ったりピクニックに行ったりするだけの。

あー、ここまで書いといてなんかアレなんですけど、仕事がキチキチに忙しかった時はプリキュアを観るために生きているというくらいの勢いでハマっていたのに、仕事が落ち着くと一気にプリキュア愛も落ち着いたのが面白かった。今も毎週観てはいるけど、そのために生きているというほどではない。なんか、ストレス発散の手段として幼児退行していたのかもしれないな、などと思った。

いずれにせよこれからも観ますが。

 

●ポチャッコ (サンリオのキャラクター)

かわいい。辛すぎるときはポチャッコの小さなぬいぐるみをポケットに忍ばせて仕事に行っていた。ポケットが怪しくふくらんでいて、周囲にバレてた可能性すこぶる高し。

 

テンピュールの枕

残業代で買った。肩と首の凝りが激しく、毎日頭痛に襲われていたわたしを救ってくれた。肩が痛いというのはどういうことだったか忘れてしまうほど改善された気がする。あと、寝るのが楽しみになった。いや、そんなの当たり前だろって思いましたか?違うよ。どれだけ日中眠くて、「帰宅したらすぐ寝てやる!」と意気込んでいたとしても、いざ夜になると起きているのが楽しくて「ヒャッホー!」となる。ところが、テンピュールの枕は夜のヒャッホー!を超えてくる。まだ寝るつもりがなくても、とりあえず気持ちいいからそこに頭をのせようと思う。そこに頭を置くために生まれてきたのかもしれないとすら思う。そして、横になるとすぐ寝てしまう。よっ!寝かしつけの達人テンピュール

考えてみると、一日の4分の1から3分の1ほどの時間横になっているわけだから、寝具に質を求めるのは当たり前なのかもしれない。なんでそんな大事なことに今まで気づかなかったんだろう!そして横になっている時間の心地よさを追求した結果、縦になっている時間のパフォーマンスも向上するからなおさらよいのだ。

マットレスとかも買い替えたいな。

 

村上春樹 (小説家)

本好きとして生きてきたつもりだが、なぜか一度も読んだことがなかった。しかしとうとう今年の初め、古本屋で出会ってしまった。(古本屋ではできるだけ、読んだことのない作家の本を買うようにしている。)

村上春樹の文章で好きなのは、あからさまな答えを書いたりしないところ。文章は分かりやすい方がよいとする見方もあるが、分かることが面白味の全てではないと思う。

今年読んだ村上春樹の作品一覧

〈長編〉

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

海辺のカフカ

1Q84

ねじまき鳥クロニクル

〈短編・エッセイ〉

カンガルー日和

東京奇譚集

・羊男のクリスマス

・猫を棄てる

村上春樹と同時代を生きていることそのものが嬉しい。三島由紀夫にはまったとき、三島由紀夫が生きていたころ既にわたしの親が生まれていたことに対する羨望みたいなのを感じたことを思い出した。好きな作家と同時代を生き、次回作を期待できるのは幸せなことだ。

 

Kindle青空文庫

青空文庫は、著作権が切れた名作を、ボランティアの人たちがデータ化して無料で見られるようにしたもの。わたしは今まで紙媒体で読むのが好きで、電子書籍には抵抗があったのだが、スマホ依存を自覚するようになり、どうせスマホをずっと見てるのなら電子書籍でも読めば有意義なのではないか、と思い始めた。実際、いつでもスマホを見てしまう理由は活字依存だと思う。瓶のラベルや広告の文字をただ読んでしまうのと同じで、文字が読めたら何でもいい。それでSNSを眺めるのをやめて電子書籍を読むようにしたところ、読書量が爆発的に上がった。

青空文庫で文豪の短編を読み漁るのも楽しい。雑誌に寄稿していたようなものはだいたい数ページしかないので、通勤電車や職場の昼休みなどのちょっとした時間に読み切ることができてよい。つまみ食いのように次読むものを選ぶのも楽しかった。紙の本だと短編は同じ作家のものがたくさんまとめられて一冊になっている場合が多く、わたしは一冊読み切ることにこだわってしまう。タイトルだけ見ていろんな作家の作品を好き放題読む、という楽しいやり方に今年初めて出会えて、イェーイ!て感じ。

 

こんなもんかな。こんなもんです。

来年もわくわくするものたちに出会えますように。

 

#買って良かった2020

水面/クリスマスが今年もやってくる

朝いた水鳥たちが夜もいた。水鳥がいると嬉しい。

水面ってほんとうに綺麗だよな。朝日を浴びているところもよし、夜の光の反射もよし。水鳥が滑るように進んでいき、そのあとの水が割れる様もよし。どういうわけか水鳥が遠くに向かって泳いでいくのを見るとき、なぜかよい方に進んでいるという気がする。方角がどうとかいう具体的なことではなく、もっと抽象的に、よい方へ。

水面という言葉も綺麗だ。みなも。漢字にするのとひらがなにするのとでだいぶ雰囲気が変わるが、何より響きがよい。次何かに名前を付ける機会があれば、水面と名付けたい。

 

最近楽しいのは、同僚にサンタ業の進捗をたずねることである。サンタの手伝いは副業禁止の職場において唯一許されている。やり方が人それぞれで面白い。サンタの話を聞くだけでわくわくする。

わたしは今まで漠然とサンタ業への憧れを持ってきたが、残念ながらその機会はまだなく、なんとなくこれから先もないような気がしていた。とこが今年は生まれて初めて、ちょっとしたことでサンタ業に携わることができたので大変嬉しかった。ブックサンタといって、簡単に言うと寄付であるが、本屋に行って子ども向けの本を選びレジで買う、それを自分では持ち帰らず本屋に預ける。本屋がサンタに届ける。サンタが子どもたちに届けるというプロジェクトである。

子どもの頃好きだった本をいくつか選んで買った。プレゼントを選ぶとき、なんともこちらがわくわくしてしまうものなのだな。それと同時に不安もある。子どもが喜ばなかったらどうしよう。まあ知らない子どもなので、手に渡った瞬間投げ捨てられたとしてもその様子をわたしが見ることはないのだが。

サンタに参加したことを母に話すと、母はトナカイ業を検討しているとのことであった。親子だなと思った。