景色を見せたい
帰り道、わたしの目の前ですれ違ったおばちゃんのチャリと、それにぶつかりそうになったお姉さんのスカートがまったく同じ色だった。パステルのむらさき。
親しい人たちに自分の生活空間を見せたいという願望があるということにふと気づく。具体的には、わたしが毎日見ている通勤経路の景色を見せたい。駅のホームのベンチ、車窓、お気に入りの花壇やネコがいる道、イタチが走っていた商店街、地下からエスカレーターを上るにつれ徐々に見える空とすてきな建物、けっこうくさくてたまにカメがいる川、など。
これは不思議だ。
そういえば。父の家に行った時、「子供たちよ、よく見なさい、これがおとうさんの暮らしです」みたいなことを言って自慢げに家を見せてきたのだけど、散らかった部屋を見せて一体何が嬉しいのかと困惑したことを思い出す。よく分からんけど、もしかしておとうさんもこういう気持ちだったんかな。自分が毎日見ている景色を見せたいという。
こうして書くのもそう。言葉にすると、そのままの景色を見せるよりフィルターがかかるけれど、わたしの目に映った景色を見せられる気がする。そうして、共に過ごさなかった時間を共に過ごしたかのように錯覚したい。
スケルトンエレベーターに乗るとき、知らない人と一緒じゃない限りタワーオブテラーごっこをしてしまう。(具体的には、降下しはじめるときに小さい声できゃーと言う。)
乗らないで外から眺めていると、エレベーターの歯車みたいなやつが見えた。箱を引っ張っているベルトみたいなのも見えた。自分がエレベーターに乗っていると、吊り下げられているという感覚はないし、吊り下げられている真下には何階かぶんの空洞があるわけだけどそんなことも忘れているのだな。
話はかわり、
夜はたまに悲観的になる。ある夜にぼーっと、このまま生きててもしょうがないな、なんて考えていた。別にとんでもなく辛いというわけではないし楽しいこともあるけど、すごく嫌なことがいつまでたってもなくならなくて、今後もなくなりそうにないのでうんざりした。気付けば寝ており、朝、珍しいアラームで目覚める。銃を持った男が逃走中なので戸締りをしっかりせよ、外出はするな、とのことだった。
いざ危険な状況になると死にたくないな。うっかり撃たれたくない。痛い目には遭いたくない。まあ、生きたくないというのと死にたいというのは全くもって違う感情だから、これは不思議ではないな。
結局まじめに戸締りをしてニュースを見ながら1日部屋で過ごし、翌朝拳銃男は捕まったと知る。安心して出勤。
働いてお給料をもらうようになって本当に幸せだ、わたしは自分で生きていける。誰の金で食っていけてると思っているんだという脅しはないのです、わたしはわたしで生きていきますからあなたはあなたで、と言える。強がりですけどね。この調子で、明日も頑張っていこうな。