ものはためし

書く訓練、備忘録

人生レビュー20190331

世界はわたしに影響されずそこにある、わたしが世界をどう捉えるかということだけが、わたしにとって自由にできることであると思う。

 

出会いと別れの春である。非日常が苦手だから、この春も日常を取り入れないとやってられない。最後のナントカ の合間を縫って、ご飯を作って食べたり科捜研の女スペシャルを観たり部屋を片付けたり洗濯したり本を読んだり、そういういつもいつでもやるようなことをやっている。

これからはもう文章を書かないかもしれないと思った。書いたとしても人の目に触れる形にするかは分からない。学生生活を終えるにあたって特に何か書く気はなかったけれど、時間が経てばもう二度と今の感情を手に入れることはできないのであり、それはもったいないので書く。

 

実家でのわたしの18年間はあまり居心地のよいものではなく、大学は絶対に県外に出て下宿する、自由を手に入れるのだと決めていた。わたしのことを全く知らない人たちに囲まれて生きたかった。これはある意味逃亡であった。

ふとしたときにやってくるさみしさや不安と戦うとき、どれだけ苦しくてもこれをわたしは選んだのだと思った。

逃亡してきたからには幸せに生きなければならない、これでよかったと思わなければならないという謎のこだわりが結局わたしを自由にしなかったと後で気づく。これからは幸せだろうが不幸だろうがどっちだってよいのだと思う。かなしくて泣いてもいいし楽しくて笑ってもいい。

 

ソウルメイトと最後の会合。思考することと書くことと読まれること、それから生きていくことについて話した。何のために書くのか。ものを書きながら、ふとしたときにやってくる、一体自分は何をしているのだという崩壊の瞬間。でもやはり書くのはやめられないのである。

ものを書く人は書くというだけでマイノリティであるが決して特殊なわけではないということを忘れてはならん、と彼は言った。もっともである。

仕事という意味ではなく単純に、生きていく手段としてものを書く人との出会いは大きかった。

 

それから、戦友というような人との出会い。起こってしまったかなしいことをどう捉えて進んでいくかということが我々の課題だった。いや、現在進行形で課題である。

わたしが笑っていようが泣いていようが怒っていようが関係なく独立した感情を持つ人がそばにいるという感覚がよい。人のかなしみを自分のかなしみとすることばかりが優しさではない。理解と共感を分けて考えるところが強い。

かなしいことはなかったことにできない。楽しいことをたくさんして薄めていくことはできても決してなくならなくてしっかりそこにある。

大切な人たちに新たなかなしいことが起こらないでほしい。もし起こってしまったらわたしがなんとかしたい。それでも、わたしが人のためににできることは何にもないなと思った。無力である。無力さを知りながら、自分自身が強く、独立して存在し続けることで人の力になれると信じたい。

 

雨が降っていた。好きな男が寝ていた。わたしはお気に入りの本を開いて手に持っていた。

気に入らなくてもこの世界で、この顔で、この身体で生きていくしかない。諦念。

 

おわり