ものはためし

書く訓練、備忘録

アイディアちゃん

ある秋の週末、私は親戚の2歳児と遊んでいた。

「ちょうだいどうぞゲーム」をした。落ちているどんぐりを広い集めて、「どうぞ」と渡してくれる。私は「ありがとう」と言ってそれを受け取る。しばらくするとこちらに手を伸ばしてくるので、今度は私が彼女にどんぐりを「どうぞ」と渡す。これを延々と繰り返した。私と彼女の間をどんぐりが行ったり来たりする。そういえば少し前は「ちょうだい」と「どうぞ」を逆に覚えていたのに、もう分かるようになったんだな、と驚く。そのときはおそらく大人が「どうぞ」と言いながら物をくれるから、「どうぞ」は物をもらうときに言う言葉だと勘違いしていたのだと思うが、いつどうやって、そうではないと気付いたのだろう。

 たんぽぽの綿毛を見つけた。一緒にふーふーしよう、と手渡したけれどどうしていいか分からないようだったので、綿毛をちょっと吹き飛ばして見せた。彼女はきゃっきゃと喜んで手を叩いた。そして驚いたことに、自分の手に持っているどんぐりをふーふーし始めた!残念でした。どんぐりにふーふーしても何も起こらないよ。けれどそこには子どもの純粋なアイディアが見て取れた。たんぽぽは、ふーふーしたらふわふわと綿毛が飛んで行った。どんぐりも、ふーふーしたら何か面白いことが起こるかもしれない。きっとこれまでの経験を総動員して予想したんだろう。

 そのとき20歳の私は、たんぽぽってこんな季節に咲くんだっけ。春じゃないのかな。これはきっと在来種じゃないな。それか異常気象で狂ってしまったのかな。どんぐりは持って帰ったら後で虫が出てきそうだな。なんてことをくるくる考えていた。これも私の経験を総動員した予想だから、10倍生きたって、することはそんなに変わらないのだと思った。

 さて、2歳と20歳のやりとりを見ていた更に大人な人たちは何を思っただろうか。私の親や、またその親の世代たちは。私の何倍も生きているその人たちからしたらまだまだ私も子どもなのだから、子ども同士のやりとりとして私たちを見ていたかもしれない。大人たちがどんな気持ちなのか今の私には分からないけれど、いずれ分かるようになるだう。

よく、大人になることは何かを失うことだと捉えて悲観視したり、逆に早く大人にならないとと焦ったりするけれど、なんだかそういうことがどうでもよくなってきた。大人と子どもの境界線は曖昧で、おそらく今の自分はちょうどその曖昧なゾーンにいる。大人と子どもの間で、いいとこ取りをしたっていいんじゃないか?

急に楽観的になり、ここで思考が停止したので文章もこのへんで書くのをやめる。