ものはためし

書く訓練、備忘録

最後のひとつ

クッキーをむしゃむしゃ食べていて、気づいたら全部なくなっていた。あれ、もうないのかなと思って袋を覗いたら空っぽで、空っぽなことは別にいいんだけど、最後のひとつを最後のひとつだと認識して食べられなかったことが悔しかった。

私は兄弟がいるので、小さい頃からお菓子なんかを分け合って食べることが多かった。その中でできた、今思うとおもしろいルールがある。

「誰かが食べているお菓子を分けてもらうとき、分けてと言われた人は嫌がらずに分けてあげなければならないが、それが最後のひとつ/ひとくちの場合は断ってもいい」というものだ。ただ分けてもらうだけではなく、アイスをひとくちずつ交換する場合なども、お互い最後のひとくちになる前に交換を提案しなければならず、うっかりしていて相手がもう食べ終わりそうなところを発見したら、きっぱり諦める。

多分私達にとっては、これが最後 という気持ちが大切だったのだと思う。その覚悟なしに突然食べられなくなるとかなしい、みたいな単純な思考なのだと思うけど、その認識が兄弟全員に共通していて暗黙の了解になっていたのがおもしろいと思う。

これはただの兄弟ルールなので、他の人がどう思ってるのかは知らない。兄弟以外の人に何か分けてと言われたとき、私はそれが最後のひとつだというだけの理由で断ったりはしないけれど、心の中でちょっとだけ「あら残念」くらいは思うんだけどどうなんでしょう。

 

これが最後だ と認識できることって、あまり多くないかもしれない。満開だった桜は気づかない内に葉桜になっているし、高校を卒業して以来会っていない友達はもしかしたらもう一生会わないかもしれないし、次帰省するまで家族が元気か分からないし、なんなら私もいつまで生きるか分からないのでさっき食べたクッキーが私の最後の食事になるかもしれない。クッキーは見たら残量が分かるけど、そんな風に分かる事の方が絶対に少ない!と突然怖くなった。でもそんなもんか、そんなもんだぞ。だって、嫌なことも予測できずに突然起こるけど、いいことだって突然起こったりする。例えば誰か新しい人とばったり出会うとき、それは「その人と会っていない状態」の突然の終わりでもある。そういうこと。

もう何が何だか。気づかない内に何かが始まったり終わったりしますよ と書かれた人生の利用規約みたいなやつの同意ボタンをうっかり押してこの世に出て来でもしたのかしら。読めないくらいめちゃめちゃちっさい字で一瞬だけ表示されてて見逃したんじゃないの。

まーいっか。 

暮らす

先日ある人が「暮らすのが好き」と言っているのを聞いて、面白かったのでそのことについて考えていた。その人は料理や部屋づくりが好きで、そういう仕事に就きたいともいう。

少し前、病気で寝込んでいる時にずっと考えていたけれど、「生きる」と「暮らす」は全然違うね。「生きる」は病人でもできるけど、布団や狭い部屋の中で日がな一日過ごし、食べたいものも食べられず行きたい所にも行けず着たい服も着られぬようでは暮らしていると言えないと感じた。なんというか、「暮らす」というのは生きている実感だろうか、当たり前の積み重ねだろうか。

今、少し元気になった私は、丁寧に暮らしている。よく眠り、美味しいご飯を食べる。無理のない程度で部屋を片付けたり、植物の世話をしたり、洗濯をしたり、近くのスーパーに買い物に行ったり、得意じゃないけど料理にも挑戦したりして。

本当だったらサークルやアルバイト、他にも色々としたいことやしなければならないことがあるけれど、今はその体力がないから、ただ暮らすことに集中している。

もっと元気になったらもちろん、絶対に、やりたいことを全部やってやる。そして、今の暮らしの丁寧さは元気になればなるほど忙しくなって失われていくんだろう。それでいい。

だけどさ、この平和さや暮らしの喜びは、忘れないでいたいな、なんて思うよ。

‪近所の池の周りを散歩していたら、う がいた。う だけがいた。私は思わず「うだ!」と言った。そして、う が水に潜っては魚を捕まえるのを10分くらい眺めていた。‬

‪昔、その池にはよく鷺がいた。青鷺という名前だけど本当は灰色の鷺と、白鷺という名前で本当に真っ白の鷺と、二種類。鷺は人間の叫び声に似た、ぎゃーっという鳴き方をする。頭を前後に揺らしながら慎重に歩く。私は幼い頃鷺の歩き方を上手に真似て家族を笑わせた。‬
‪そのうちなぜか青鷺はいなくなり白鷺だけになった。しらない人が白鷺を見て、鶴と間違えることがあった。鶴がこんなただの池にいるわけがないと、大人たちは笑った。私はたしかに鶴が綺麗で珍しいのは知っていたが、白鷺も綺麗だと思っていたので、なぜ鶴と鷺の格がそこまで違っているのかいつも疑問に感じていた。しかしそんな白鷺もいつの間にか姿を消した。‬
‪前見た時には鴨がいた。そして今、鴨はおらず、ただ鵜が一羽、ぷかぷかと水に潜っていた。鵜を見たことはあるからすぐに鵜と分かったけれど、その池で見るのは初めてだった。‬

鳥がいなくなったり新しくやってきたりするのがいいことか悪いことか、私には分からない。渡り鳥は季節によって移動するからいたりいなかったりするのは自然だし、他の生態系の変化のせいかもしれない。人だって、色々理由があって行ったり来たりするんだから鳥も色々あるんだろう。

 

最初、鵜のことを平仮名で「う」と書いたけれど、平仮名でただ一文字というのは本当に間が抜けて見えるから面白い。私は鵜が泳いでいるのを見て、「う が泳いでいる!」と思い、後で、「う が泳いでいたな」と思い、絵にしてみた。(わりと真面目に。)

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 絵を書き終わった時に日付を入れようと思って、勘で書いてからカレンダーで確認したら、2日も前の日付だった。毎日毎日、早く時間が過ぎろと思いながら暮らしているのに、いざ時が経っているのを実感したらすこし寂しいものだから不思議だ。では一体どうしたらいいのだろ鵜。

6センチとアイスと瞬きのリズム

6センチ。急に、直径6センチとはどのくらいの大きさだろうかと気になった。たまたま近くにものさしがあったので確認しようとしたら、目盛りが全部禿げて見えなかった。なんだこれは、もはやものさしとは言えなくないか。私の知る限り、ものさしには2つの用途があって、1つは長さを測ること、もう1つは直線を引くことだ。そのものさしは1つ目の用途には使えないが2つ目はいけるので、まだものさしと言えるかもしれない。ただ、直線を引くだけなら別にものさしを使わずとも、その辺の物を使ってもできそうだった。例えばハンガーとか。私はハンガーで直線を引いたことはないが、その気になれば不可能ではないと思う。こういうことを言うと、直線を引くのを本職にしている人に怒られるのではないかと思ってびくびくする。直線を舐めるな、ものさしを舐めるな、と。

6センチの話に戻る。私のお腹の中には今、6センチくらいの爆弾が、埋まっているらしい。そのことを考えた。その爆弾の存在が私全体を、少しずつ腐らせていると思った。手脚だけでなく、頭や心も。もういっそ、爆発してしまえばいいとさえ思うのだが、おそらく爆発してもなお全ては終わらず助かってしまい、その後は今よりも辛い思いをしなければならなさそうだからそれは困る。

隣で姉がアイスを食べ始めた。私は元々お腹が弱く、お腹を冷やすことは諸悪の根源だと思っているので、寒い季節になってからずっと禁アイスを心がけていた。しかしどうにも我慢ができず、姉が食べているもちふわ抹茶最中ナントカを、一口もらってしまった。いとも簡単に、禁アイスの誓いは破れてしまったのである。

そもそも、と私は考えた。アイスというのは凍っているからアイスなのであって、溶ければただの甘い液体ではないか。口の中で完全に溶けるのを待ってから飲み込めば、それはアイスを食べたことになるのか?もちろん、成分的には間違いなくアイスなので、アイスを食べたことにはなるかもしれないが、私の場合アイスが冷たくてお腹に悪いからという理由で禁止しているだけである。冷たくないアイスはそれほどお腹に悪くない。ならば、溶けたアイスをお腹に入れた罪は軽いではないか!!!急に嬉しくなって、私はにやにやしそうなのを必死で抑えた。

そんなことは全く知らないはずの姉が2メートルほど先で残りのアイスを食べ終えたところだったが、突然吹き出して笑い始めた。何事かと見ると、携帯をいじっている風でもなくただ私を見て笑うので、何か私がおかしなことでもしたようだった。私は「食アイス罪軽減万歳」の件がバレでもしたのかと一瞬思ったが、そうではないことはすぐに分かった。姉が言ったのだ。

「あんたの瞬きの音がきこえる」

苦手なもの

昔から子どもと犬が苦手なのだが、なぜか最近子どもが好きになってきた。だってかわいいじゃないですか。

だってかわいいじゃないですかというのは犬好きな人がよく言うけれど、私はずっとそれが許せなかった。たしかに好きな理由にはなっているけど納得はできない。世の中の風潮として、犬はかわいいから皆好きみたいなのがある気がする。でもそう思わない人も当然いるはずなのだよワトソン君。

大学の中庭でよく犬が走っている。リードを引きずって飛んだり跳ねたりする。近くでおばさんが、楽しそうにそれを見ている。おばさんの犬だ。私はキャンパス移動のためにその中庭を突っ切らなければならないのだが、繋がれていない犬のそばを通るのはとてもつらい。大学は犬の遊ぶところではない、人間が勉強するところだぞ、などと思う。しかし犬とおばさんはとても楽しそうで、よく考えたら国立大学の中庭である。きっと犬とおばさんが遊んではいけないというルールもないし、大学は人間が勉強する場所というのは私の考えでしかなく、犬が苦手なのも私の問題であり、それを押し付けて犬とおばさんの幸せを奪う権利は、私にはないのである。息を止めて、できるだけにこにこして、颯爽と、通り過ぎる。

私は小さい頃、野犬にほえられたり追いかけられたり、子猫が野犬に殺されるところを見たりしてあまりいい思い出がないから犬が苦手なのだと思う。ただ、犬に追いかけられたことがなければ犬が好きだったかと言われると、それははわからない。そういえば、近所を野犬がウロウロし始める前から、はす向かいの家のタロちゃんが怖かったし、反対のはす向かいの家のマリーちゃんも怖かったし、隣の家のバンも(番犬とは呼べないほど大人しかったのにもかかわらず)怖かったから、もう生まれた時から私は犬が怖かったのかもしれない。そんななので、おそらく、何かが苦手だということは向き不向きもあって仕方がないことだ。

私は犬を可愛がれないことを残念に思う。皆のように犬を可愛がれたらいいのに。そのほうが人生ずっと楽しくなりそうなのに。楽しく生きるためには、苦手なものは少ない方がいい。だからといって、苦手なものがあることを気に病むのもどうかと思うから、難しい。

あんなに元気だったタロちゃんもマリーちゃんもバンも、もう死んで何年も経った。それでも、相も変わらず私は犬が苦手である。ひょっとすると、子どもと同じように、いつかかわいく思えてくるかもしれないので、悪あがきはせずにその時をただじっと待つ。

一発書き(興奮している)

聞いてください!たった今すごくいいことが2つも起こった!
私が片脚棒みたいになってスムーズに歩けないからママが杖を貸してくれるって言って、持ってきてくれた。ママというのは私のお母さんではなくて、お母さんの友達のことなんだけど、わけわかんないよね。とりあえず、それで、ママが車でうちの前まで来てくれることになってたから、私は窓から外を見ながら待ってたんだよね。そしたらね!西の空に!流れ星が流れたよ!シューッと!(「シューッ」というのは超重音節だ。3モーラなのに1音節という珍しいやつ。まあそんなことはどうでもよくて、)本当にあれは流れ星だったのかな、違うかもしれない、でも流れ星だったらいいのにな、誰かあれは確かに流れ星だったよと言ってくれたらいいのにな、でも私しか見てなかったからな、と大きな声で独り言を言った。それからお母さんに、あれは流れ星でしたかね、と聞いたら、はいあれは流れ星でした、とお母さんが答えた。だからあれは流れ星でした。やったね。願い事叶っちゃうんじゃない?元気になっちゃうんじゃない?願い事、3回どころか1回も唱える余裕なかったけど。

そうやって騒いでいたらちょうどママの車が来るのが見えた。ママが貸してくれた杖はめちゃくちゃオシャレな上に、持ってみたらすごく歩きやすそうな安定感だったから、明日元気だったらそれを持って出かけたいなと思った。

誰のせいでもないマイナス

苦しい日々が続いている。何というか、身体的ダメージが精神にも響いてくるのを感じる。それで悲観的になるのは私の問題だけれど、そのせいで人にまで嫌な思いをさせるのが怖い。

例えば、いつもなら楽しめるはずのことが、お腹が痛いせいで楽しくないとか、せっかくおいしいご飯を作ってもらったのに食欲がなくて食べられないとか、よく分からない恐怖で家族に当たり散らしてしまうとか、おもしろい文章が書きたいのに苦痛を吐き出すことしかできないとか、そういうこと。そういうとき私は「これは本来の私の姿ではなく、病気のせいで変わってしまっただけだ」と考えて悲しみや罪悪感を軽減しようとする。「私は今、全ての感覚や思考が、痛みや恐怖に支配されている。何をしても、純粋な私の意思以外の要素が働いているのだ。今、見えている私の様子だけで私を判断しないで欲しい。それは、本当の私ではないから」なんて、思う。

けれど、そもそも本来の私とは、どんなものなのか。そんなに守りたい人格だったのか、分からない。分からない。

何か自分にとって大きな出来事があったとき、それが起こる前と後ではまったく違う自分であることは分かるのだが、具体的に何が変わったかと言われると分からないものだ。私は病気のせいで自分の人格が歪むことを恐れるが、病気がもたらす変化は悪いものだけではないと思う。忍耐力や、考え方にいい影響があるのかもしれない。そんな全てを切り捨てるわけにはいかない。そもそも、私が望もうが望ままいが、病気が治るわけではないのだ。

私は不幸自慢がしたいわけではない。そんなのは、かっこ悪いし自分をさらに不幸にすることだと思っている。私が病気なのは私のせいではない。でも、家族や友達のせいでもない。だから周りの人に当たり散らすのは絶対に違うのは、分かる。この、誰のせいでもないマイナスは、誰のせいでもないのに、誰かが我慢しなければならない。本来ならそれは私である。しかし一人で全部背負うのは長く続かないし、現にそれがもう無理になったから親を頼って実家に帰っているのである。できる限り、家族や友達に頼ること。でも、頼りすぎないこと。本来私が背負うべき荷物を、周りの人が優しいから一緒に持ってくれてるだけなんだという意識を持って、いつも感謝を忘れないで。難しいけど、そうするしかない。