ものはためし

書く訓練、備忘録

6センチとアイスと瞬きのリズム

6センチ。急に、直径6センチとはどのくらいの大きさだろうかと気になった。たまたま近くにものさしがあったので確認しようとしたら、目盛りが全部禿げて見えなかった。なんだこれは、もはやものさしとは言えなくないか。私の知る限り、ものさしには2つの用途があって、1つは長さを測ること、もう1つは直線を引くことだ。そのものさしは1つ目の用途には使えないが2つ目はいけるので、まだものさしと言えるかもしれない。ただ、直線を引くだけなら別にものさしを使わずとも、その辺の物を使ってもできそうだった。例えばハンガーとか。私はハンガーで直線を引いたことはないが、その気になれば不可能ではないと思う。こういうことを言うと、直線を引くのを本職にしている人に怒られるのではないかと思ってびくびくする。直線を舐めるな、ものさしを舐めるな、と。

6センチの話に戻る。私のお腹の中には今、6センチくらいの爆弾が、埋まっているらしい。そのことを考えた。その爆弾の存在が私全体を、少しずつ腐らせていると思った。手脚だけでなく、頭や心も。もういっそ、爆発してしまえばいいとさえ思うのだが、おそらく爆発してもなお全ては終わらず助かってしまい、その後は今よりも辛い思いをしなければならなさそうだからそれは困る。

隣で姉がアイスを食べ始めた。私は元々お腹が弱く、お腹を冷やすことは諸悪の根源だと思っているので、寒い季節になってからずっと禁アイスを心がけていた。しかしどうにも我慢ができず、姉が食べているもちふわ抹茶最中ナントカを、一口もらってしまった。いとも簡単に、禁アイスの誓いは破れてしまったのである。

そもそも、と私は考えた。アイスというのは凍っているからアイスなのであって、溶ければただの甘い液体ではないか。口の中で完全に溶けるのを待ってから飲み込めば、それはアイスを食べたことになるのか?もちろん、成分的には間違いなくアイスなので、アイスを食べたことにはなるかもしれないが、私の場合アイスが冷たくてお腹に悪いからという理由で禁止しているだけである。冷たくないアイスはそれほどお腹に悪くない。ならば、溶けたアイスをお腹に入れた罪は軽いではないか!!!急に嬉しくなって、私はにやにやしそうなのを必死で抑えた。

そんなことは全く知らないはずの姉が2メートルほど先で残りのアイスを食べ終えたところだったが、突然吹き出して笑い始めた。何事かと見ると、携帯をいじっている風でもなくただ私を見て笑うので、何か私がおかしなことでもしたようだった。私は「食アイス罪軽減万歳」の件がバレでもしたのかと一瞬思ったが、そうではないことはすぐに分かった。姉が言ったのだ。

「あんたの瞬きの音がきこえる」

苦手なもの

昔から子どもと犬が苦手なのだが、なぜか最近子どもが好きになってきた。だってかわいいじゃないですか。

だってかわいいじゃないですかというのは犬好きな人がよく言うけれど、私はずっとそれが許せなかった。たしかに好きな理由にはなっているけど納得はできない。世の中の風潮として、犬はかわいいから皆好きみたいなのがある気がする。でもそう思わない人も当然いるはずなのだよワトソン君。

大学の中庭でよく犬が走っている。リードを引きずって飛んだり跳ねたりする。近くでおばさんが、楽しそうにそれを見ている。おばさんの犬だ。私はキャンパス移動のためにその中庭を突っ切らなければならないのだが、繋がれていない犬のそばを通るのはとてもつらい。大学は犬の遊ぶところではない、人間が勉強するところだぞ、などと思う。しかし犬とおばさんはとても楽しそうで、よく考えたら国立大学の中庭である。きっと犬とおばさんが遊んではいけないというルールもないし、大学は人間が勉強する場所というのは私の考えでしかなく、犬が苦手なのも私の問題であり、それを押し付けて犬とおばさんの幸せを奪う権利は、私にはないのである。息を止めて、できるだけにこにこして、颯爽と、通り過ぎる。

私は小さい頃、野犬にほえられたり追いかけられたり、子猫が野犬に殺されるところを見たりしてあまりいい思い出がないから犬が苦手なのだと思う。ただ、犬に追いかけられたことがなければ犬が好きだったかと言われると、それははわからない。そういえば、近所を野犬がウロウロし始める前から、はす向かいの家のタロちゃんが怖かったし、反対のはす向かいの家のマリーちゃんも怖かったし、隣の家のバンも(番犬とは呼べないほど大人しかったのにもかかわらず)怖かったから、もう生まれた時から私は犬が怖かったのかもしれない。そんななので、おそらく、何かが苦手だということは向き不向きもあって仕方がないことだ。

私は犬を可愛がれないことを残念に思う。皆のように犬を可愛がれたらいいのに。そのほうが人生ずっと楽しくなりそうなのに。楽しく生きるためには、苦手なものは少ない方がいい。だからといって、苦手なものがあることを気に病むのもどうかと思うから、難しい。

あんなに元気だったタロちゃんもマリーちゃんもバンも、もう死んで何年も経った。それでも、相も変わらず私は犬が苦手である。ひょっとすると、子どもと同じように、いつかかわいく思えてくるかもしれないので、悪あがきはせずにその時をただじっと待つ。

一発書き(興奮している)

聞いてください!たった今すごくいいことが2つも起こった!
私が片脚棒みたいになってスムーズに歩けないからママが杖を貸してくれるって言って、持ってきてくれた。ママというのは私のお母さんではなくて、お母さんの友達のことなんだけど、わけわかんないよね。とりあえず、それで、ママが車でうちの前まで来てくれることになってたから、私は窓から外を見ながら待ってたんだよね。そしたらね!西の空に!流れ星が流れたよ!シューッと!(「シューッ」というのは超重音節だ。3モーラなのに1音節という珍しいやつ。まあそんなことはどうでもよくて、)本当にあれは流れ星だったのかな、違うかもしれない、でも流れ星だったらいいのにな、誰かあれは確かに流れ星だったよと言ってくれたらいいのにな、でも私しか見てなかったからな、と大きな声で独り言を言った。それからお母さんに、あれは流れ星でしたかね、と聞いたら、はいあれは流れ星でした、とお母さんが答えた。だからあれは流れ星でした。やったね。願い事叶っちゃうんじゃない?元気になっちゃうんじゃない?願い事、3回どころか1回も唱える余裕なかったけど。

そうやって騒いでいたらちょうどママの車が来るのが見えた。ママが貸してくれた杖はめちゃくちゃオシャレな上に、持ってみたらすごく歩きやすそうな安定感だったから、明日元気だったらそれを持って出かけたいなと思った。

誰のせいでもないマイナス

苦しい日々が続いている。何というか、身体的ダメージが精神にも響いてくるのを感じる。それで悲観的になるのは私の問題だけれど、そのせいで人にまで嫌な思いをさせるのが怖い。

例えば、いつもなら楽しめるはずのことが、お腹が痛いせいで楽しくないとか、せっかくおいしいご飯を作ってもらったのに食欲がなくて食べられないとか、よく分からない恐怖で家族に当たり散らしてしまうとか、おもしろい文章が書きたいのに苦痛を吐き出すことしかできないとか、そういうこと。そういうとき私は「これは本来の私の姿ではなく、病気のせいで変わってしまっただけだ」と考えて悲しみや罪悪感を軽減しようとする。「私は今、全ての感覚や思考が、痛みや恐怖に支配されている。何をしても、純粋な私の意思以外の要素が働いているのだ。今、見えている私の様子だけで私を判断しないで欲しい。それは、本当の私ではないから」なんて、思う。

けれど、そもそも本来の私とは、どんなものなのか。そんなに守りたい人格だったのか、分からない。分からない。

何か自分にとって大きな出来事があったとき、それが起こる前と後ではまったく違う自分であることは分かるのだが、具体的に何が変わったかと言われると分からないものだ。私は病気のせいで自分の人格が歪むことを恐れるが、病気がもたらす変化は悪いものだけではないと思う。忍耐力や、考え方にいい影響があるのかもしれない。そんな全てを切り捨てるわけにはいかない。そもそも、私が望もうが望ままいが、病気が治るわけではないのだ。

私は不幸自慢がしたいわけではない。そんなのは、かっこ悪いし自分をさらに不幸にすることだと思っている。私が病気なのは私のせいではない。でも、家族や友達のせいでもない。だから周りの人に当たり散らすのは絶対に違うのは、分かる。この、誰のせいでもないマイナスは、誰のせいでもないのに、誰かが我慢しなければならない。本来ならそれは私である。しかし一人で全部背負うのは長く続かないし、現にそれがもう無理になったから親を頼って実家に帰っているのである。できる限り、家族や友達に頼ること。でも、頼りすぎないこと。本来私が背負うべき荷物を、周りの人が優しいから一緒に持ってくれてるだけなんだという意識を持って、いつも感謝を忘れないで。難しいけど、そうするしかない。

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怖い夢を見た。しかも3本立てである。何か不調があると悪夢を見やすいが、今日のは明らかにそれであった。

1つ目は、なぜか自分が友達のSNSを乗っ取ってしまい、そこから大きな事件が起きて警察に捕まりそうになる夢。地元のヤンキーが仇討ちにやってきたりしてひたすら怖いが、元はと言えば自分が友達のSNSを乗っ取ったのが悪いのであって、私はその仕打ちを受けるのが当然に思われた。罪悪感と恐怖でガタガタ震えながら目が覚めた。

 2つめは、高校の部活仲間と一緒に学校から競技場に移動する間に、なぜか乗っている最中なのに自転車を盗まれてしまう夢。そこで走りまわって自転車を探すのだが、その途中に前のバイト先に居た怖いパートのおばちゃんと出会う。私は大荷物で走り回るのは邪魔なので荷物をしばらく見張っていてもらえないかと頼む。パートのおばちゃんはセーラー服を着ており、彼氏と待ち合わせしていて、それがどうやら待ちぼうけを食らっているところのようで、機嫌が悪かった。そのせいで私は無駄にお説教をくらった。パートのおばちゃんにごめんなさいをして、私は急いで歩き始めた。この辺で当初の自転車を探すという目的は消えかけていた。まあそれでも狭い路地を進んでいくのだが、夢でよくあるように足が全く動かない。そこで私は壁や標識の柱を手で掴んで身体を引き寄せる方法でなんとか前に進もうとした。そのへんでだんだん、「こんなに進めないなんて、これは夢だ」と気づいて目が覚めた。

時計を見ると7:30だった。もう起きてもいい時間である。隣を見ると母がまだ寝ていた。もう一度寝るとまた悪夢を見ると分かっていたので寝たくなかった。だから目を見開いてじっとしていた。なのに、また夢を見た。

3つ目は、幼い頃の夢であった。3歳くらい。兄と一緒に風邪をひいて、布団を並べて寝ていた。兄とは6歳差なので本当はそんなはずないのだが、夢の中では兄も私と同じくらいの歳だった。そこに母が来る。母は私たちの頭をなでて、薬を飲もうねと言う。兄と私はなぜか、その薬を飲むと自分たちが死んでしまうことを知っていた。しかも家が貧困とかで、もうやっていけないので母が私たちにそれを飲ませるのであった。それも分かっていたので尚更、私たちはそれを飲まなければならなかった。兄はすんなり飲んでしまう。私の番になる。私も飲まなければと思うのだが、死への恐怖が優ってどうしても飲めない。薬を飲む前にどうしてもトイレに行きたい、と言って逃げ出す。トイレに駆け込んだ瞬間、時が流れて、私は大きくなっていた。結局薬を飲まなかった未来へ飛んだのだった。兄はいなかった。代わりに姉がいた。最初のシーンでは姉はいないことになっていたのに、そこにいた。後になって姉が生まれるというのはおかしいのだが、夢の中ではそれがありえた。家の貧困はなんとかなったようで、私は結局助かり兄は幼いまま死んだ。そして平和になってから姉が生まれたのである。めでたしめでたし。後味の悪いまま目が覚めた。

 

人の夢ほどどうでもいいものはないと常々思う。小さい頃父親が、毎朝のように自分が見た夢の説明をしてきて面倒だった記憶がある。しかも父は、夢の中でお前がこんなことを言ったぞ、とまるでこちらが悪いかのように責めてきたりしてタチが悪かった。

 夢は全て自分の頭の中で起こっている。だから自分の関心ごとのオンパレードである。つまり、多分自分が一番、面白いのだ。夢は売るほど価値がない。無料でもいらない。それを、こうして押し売りするのである。

「お買い上げ頂きありがとうございました。おおきに。またお願いします。」

お風呂

お風呂に入るのが好きだ。特に、人と一緒にお風呂に入るのが好きだ。と言ってもそんなに他人とお風呂に入る機会はない。だいたい一緒に入ってくれるのは、姉である。

 実家に住んでいたころは、毎日お風呂に姉を誘った。姉から一緒に入ろうと言ってくることはほとんどない。おそらく姉は私ほどお風呂が好きでない。必要に迫られるまでできるだけ入らずに、部屋でごろごろしているのを好むようだ。そして、私が入るとき必ず誘うのだが、結構な確率で渋る。そして、後から行くから先に入っといて、と言う。そして私は1人でお風呂に入るけれど、そういうときだいたい姉は来ない。関西人の「行けたら行く」はほとんど「行かない」という意味だというけれど、姉の「後から行くよ」はそれと一緒だと思う。

まぁ、そんなのは置いといて、運良く姉の機嫌がよく、一緒にお風呂に入ってくれるとき、私はわくわくする。なぜだろう。分からないけれど、楽しい。

姉は暇さえあれば携帯をつついている。私が話しかけると聞いてくれるし返事もするが、私はどうもそれが気に入らない。お風呂にいるとき姉は携帯をつついていないので、私の話をしっかり聞いてくれるし自分の話もするので、私はそれが嬉しいのかもしれない。

結局のところ、お風呂が好きなんだか姉が好きなんだか分からないな。でも私は銭湯も好きで、銭湯に友達がついて来てくれるときいつも以上に嬉しくなる。だからやっぱり姉が特別好きとかではなく、人とお風呂に入るのが好きなんだということにしたい。

 これだけ書いた後でいうのもなんだが、1人でお風呂に入るのも悪くない。考え事が捗るし、あと、何と言っても結露した壁が好きである。お風呂は、冬の朝の窓ガラスと違って、常に蒸気に晒されているので、絵や字を書いてもしばらくするとまた結露する。だから、書いては消して書いては消してを繰り返しできて、楽しい。考え事をしながらそれをどんどん指で書く。細かく、板書みたいに。あと実家のお風呂の壁はタイルで、それをノートのマス目みたいにして大きく丁寧に字を書くのも好きでいつもやっていた。

 今住んでいる下宿の部屋はお風呂とトイレが一緒になっているので、お湯をためてゆっくり浸かるということができない。だから人と一緒には入れないし、壁に字も書けないし、お風呂のいいところがほとんどない。これには理由があって、お風呂とトイレが別々になっている物件はだいたい家賃が5千円くらい高かったのである。だからそれをケチって今の部屋にしたが、月々5千円を超える価値が、広いお風呂にはある気がする。お風呂以外のいろんな部分は今の部屋で十分なので引っ越すほどではないが、次引っ越すときはお風呂をしっかり見て物件を決めたい。

ちょっと病気だけどいいこともある

1月に入ってからずっと体調が悪い。

ずっと寝込んでいると布団が不快な感じになるので、タイミングを見計らって外に干す。その間はこたつに潜り込んで、じっとしている。

仰向けになって、白い天井についている白い照明器具をぼーっと眺めていたら、気づくと照明器具がなくなっていた。焦点の問題か、ぼんやりと輪郭が消えて天井と同化して見えた。(どうかしてるぜ。)それが面白くて私はひとりできゃーと言って、瞬きをするとまた照明器具が天井についているのがはっきり見えた。もう一度消してみようとじっと天井を睨んだが、意識するとできないのだった。

ここのところ、薬局にかっこいい薬剤師さんが いるのが癒しだ。なんというか、いわゆるイケメンという感じではないのだが、決してチャラくはなく清潔感があって人畜無害そうな、優しい声の持ち主である。あんまりじろじろ見るとよくないのでできるだけ見ない。たまたまその薬剤師さんから薬を受け取れたときはもうめちゃくちゃに元気が出て、もうそれを飲まなくても治るんじゃないかとか思ってくる。我ながら気持ち悪い。けれど、自宅で苦しむか病院にフラフラ出かけるかの日々が続くと、そういう喜びを見つけないとやっていけなくなる。待合室の雑誌で読んだ旅行特集がいい感じだったから旅行したくなったり、MRIの間ヘッドホンをつけてミスチルを流してもらえたこととか、検査の帰りに買い物したりとか、女医さんが美人とか、大好きな友達がごはん作りに来てくれたとか、街のバリアフリーを感じるとか、バイト先に理解があってしばらくお休みをもらえたとか、教授にメールしたらレポートの期限を猶予してもらえたとか、どの内臓がどこにあるか実感できたり、身体の仕組みが分かったり、お正月太りの分くらいは体重が落ちたり、ずっと寝込んでるとメイクしないのでお肌が生き返ったり、あと、かわいいお薬手帳をゲットすることを夢見たり。

頭の中は苦痛が大半を占めるけど、いいことだってたくさんある。最近は苦痛に負けて、ネットでもネガティヴなことばかり言っている気がするから、こうしてちょっとは釣り合いをとりたかった。心配しないでください、と言ってもする人はすると思うけど、私はこうして毎日楽しいことを探して、できるだけ楽に闘っていくからよろしく。