ものはためし

書く訓練、備忘録

IQが下がっていたときの日記

どんな気持ちでここに来ても受け入れてくれる中庭。


今朝は早起きした。午後までかかる用事があったのでお弁当を作って出かけたけれど、ギリギリでバスに行かれてしまったので一旦家に帰った。洗濯物を干して、散らかっていた部屋を片付けた。乗ろうとした1時間後のバスにも行かれてしまったのでもうその用事は諦めた。床に座ってお弁当を食べた後、腕が痛くなるまでキーボードを弾いた。15時から授業だった。身体が重くなってきて、頭もガンガンしだしたので学校に行くかどうか迷い始めた。トイレに座って少し泣いた。しくしく、とかわんわんじゃなくて、下を向いてじっとしていたら涙がぽたっと落ちるタイプの。でも、出かけなければならない時間までには立ち上がり靴を履くことができた。私は歩いて学校に来た。
教室に入ると、先に来ていた同級生たちが軽くざわめいた。時間ギリギリだったので、もう私は来ないと思っていたらしい。
授業の前半は眠たかった。発表者の話も、教授の話も全く頭に入って来ず、ただ家に帰ったらノートに書きたい言葉のことを考えていた。あと、好きな人と話したかった。ばったり会えたりしないかなと思った。その可能性はとても低いので、思い切って電話でもかけてみようかなと思った。授業の後半は面白かった。"同じだ"という形容動詞が変わった活用をするということを知った。驚いたことに授業は30分も早く終わったから、嬉しくなっておやつを買いに行った。特にお腹は空いていなかったけれど、無性にビスケットが食べたかった。ビスケットを買った。
ビニール袋をぶら下げて中庭に向かっていると、好きな人が歩いてくるのが見えた。目があった。私に向かって歩いてくる。私は、早く近づきすぎるとその分早く離れなければならないような気がして、できるだけゆっくり歩いて近づいて行った。その歩き方を見た彼は開口一番、疲れてるね、と言った。ゆっくり歩いたのはそのせいではないけれど、確かに私は疲れていた。多分、疲れていたからこそ彼に会いたかったのだ。彼も疲れているようだった。疲れているからテンションが異様に高いのだと言って、手を広げてぴょこぴょこ跳ねてみせた。
私は、次に彼に会ったら好きと言おうと思っていたのに、そんなことはすぐに忘れた。というか、覚えていたかもしれないが無理だった。今朝起きた時間の話とか、野菜の話とか、授業のこととか、当たり障りのない話を延々とまくし立ててしまった。言いたいことも言わずに。もっとも、そういう当たり障りない話をいつもしたいし、それを延々とできるところが好きなんだけれども、今日はもっと大切なことを言わなければならなかった。
いつも元気でいてほしいけれど、彼が疲れて誰かと話したくなるのなら、いつも疲れていてほしいとさえ思う。けれどそれは彼の幸せを無視した私の幸せである。彼の悲しみや苦しみを全部食べてあげられたらいいのに、とも思う。だけどそんなこと私にできるはずがなかった。私だけでなく他の誰にも、彼を助けることはできないと分かっていた。だから私は誰かと争うこともなく、静かに、遠くから彼を見ていた。しかしその安心もおかしな話であった。
次の授業に行かなければ、と彼が言った。がんばって、おつかれさま、またね。

私は中庭に来た。ベンチに座って、ノートに少し、言葉を書いた。ビスケットを食べた。木の写真を撮った。時折葉っぱが頭上から降ってきた。気付いたら暗くなっていた。ほとんど葉を落とした木の枝の隙間から星が見えた。私は片目をつぶって顔を動かし、星がぴったり枝に重なる位置で止まって星が見えないようにしてみた。顔を動かさなくても、つぶる目を変えると星がチカチカ光った。指先が冷えてきた。待っていても彼は戻って来ない。私は立ち上がった。

『よる』

携帯のボイスメモを整理していたら、面白いものを見つけた。それは、夜中に私が1人でぶつぶつ独り言を言う音源である。眠れない夜には色々考えて、ついついそれを書き出したくなるけれど、明かりをつけたら余計に眠れなくなりそうで、よくない。かといってせっかく考えていることを忘れたくもない。だから暗くして目をつぶって、考え事をそのまま喋って録音すればいいではないか!とその時の私は思ったらしい。そして録音していたのを次の朝には忘れていたので、それから3ヶ月くらい経った今見つけ出して書き起こすところとなった。音声を書き起こしたことがある人は分かると思うが、普通人が話すスピードはかなり早いので、止めたり戻したりしながらでないと到底書き起こせない。それがこの『よる』は驚くほどゆっくり、しかも欠伸や沈黙混じりで話すので、何度も止めたりいちいち戻りながらでなくても書き起こせた。以下、ほとんどそのまま。

「眠れないので、眠れないけど、(欠伸)すごく眠たいので、眠たくなったらすぐ眠れるようにして、思ってることを後でメモできるようにしようと思います。(欠伸)(突然英語)At first,I don't like to hear the sound that my friend close door and ummmm(英語分からなくなる)鍵を、鍵を、えーと、閉める音。私がその人の家を出た瞬間鍵を閉める音が聞こえたらね、追い出されるみたいな気持ちになってたんですよ。でも本当は、そんなに気にしてないかもしれない。私は。むしろ、自分が人を送り出す時に、もしかして相手がそれを気にしているんじゃないかということを、私が気にします。さて。最近、あのー、あれだ、(かなり込み入った話をし始めたため中略) あれ、私ちょっと、カタコトになっちゃってる。ハナ(留学生の友達)と喋ったり、ハナの動画見てたら、ハナはかなり日本語上手ですけど、ちょっと言い回しとか、ネイティヴと違うところとかあって、そのマネをしちゃってるというか、うつってきたというか。これも私の影響されやすさを、表してるなぁと。あー今眠気が。きたーぁ。眠気を、捕まえるのは、大変です。(欠伸)降ってきたときに、捕まえなければ、どこかへ行ってしまう。それは、言葉と似てる。タイミングよく掴まないと、どこかに行っちゃう。でも、全然、期待してない、予測してないときに、また現れる。(欠伸)あー、すごく眠いのに、なんで私は、ぶつぶつ独り言を言ってるんだろう!?(欠伸)眠い…。(大欠伸)でも、すごく眠くて、布団に入っていられるのはハッピーなことかもしれない。(欠伸)とてもハッピー(ごにょごにょ)声が、もしかしたらほとんど入ってないかもしれない。ちょっと一旦止めてみます。」

お茶

やかんでお茶を沸かしていたら、目を離したすきに吹きこぼれた。IHなので電源を切ると簡単に拭き取ることができるので大したことはないのだが、かなり派手に吹きこぼれていたので思わず「何てことだ」と3回言った。2回目までは自然に出てきたが、2回目を言っている間に、これは3回言った方がキリがいいな、と思ったので続けてもう1度言った。3回目を言いながら、ずいぶん滑稽なことをしているな、と思った。

麦茶パックを入れたままグツグツしすぎたので、お茶は真っ黒な液体になった。白いカップに入れるとコーヒーにしか見えなくて思わず牛乳を入れたくなった。それでも麦茶である。

カップを上から覗き込んで自分の顔を写してみた。悪魔みたいだった。池に映る自分に向かって吠えて、咥えていた肉を落とした犬の話を思い出した。

犬といえば、今日いつもと違う道を歩いていたら、いきなり犬に吠えられた。犬の存在に気づかず民家の庭すれすれをのこのこ歩いていたので無防備だったし、フェンス越しに犬との距離は50センチくらいであった。驚いた私は反復横跳びさながらの俊敏さで跳びのきながら犬に向かって叫び返してしまい、その姿を誰かに見られていないかキョロキョロした。この出来事において、犬は悪くないが私も悪くない。やり場のない怒りのような悲しみのような感情を持て余しながら先を急いだ。しかしいつも通らないその道を通っていつもより時間がかかったので結局遠回りだったと分かった。近道的には意味がなかったが、その道を通る意味がないと分かったので一連の行為には意味があった。ことにする。

夜空

帰省した。駅からバスに乗る時間しか伝えていなかったのでいつ着くか分からなかったはずなのに、バス停まで母が迎えにきてくれていた。一緒に家まで歩いた。
今日は星がきれいだよと教えてくれたが、それはおそらく母が星好きというよりも、私が星好きなのを知っているからであった。のではないかと思う。そういえば父は星好きで、私に星の本を見せてくれたり一緒に星を見に出たりしていた。私は目がいいけれど父は目が悪くて眼鏡をかけていた。だからあの頃一緒に見ていた星のうち私にしか見えていなかったのもあるんじゃないかと今更ながら気づいて驚く。でも何だってそうだろう。視力に限らず視野とか背の高さとか興味とか、人が違えば全部違うから見えてるものも全然違うはずだった。指をさして同じ方向を見ていても実際に見えている世界は同じではないのだ。

母と一緒に空を見上げた。星はたくさん見えたが子供の頃に覚えたはずの星座はすっかり忘れて、有名ないくつかしか見つけられなかった。母は、線がないとどれが星座か分からんよね、と言った。線というのは星座早見表なんかに書いてある星と星を繋ぐ線のことである。それは誰もが一度は思うことかもしれない。そういえば昔母が満月を見て、うさぎが一匹しか見えん、と不満そうに言っていたことを思い出した。月のうさぎは元から一匹なのに、一体何匹見ようとしたのかと思って私は笑った。

満月といえば何年か前に面白いものを見た。夜空があまりに綺麗なので、下校中の自転車を降りて空を見上げていた時の話である。飛行機のライトが点々と空を突っ切っていた。ぼんやり目で追っていると、ちょうどそれは月に差し掛かった。そして満月のまんまるい光と重なったとき、それまでライトしか見えていなかった飛行機のシルエットが一瞬、きれいに浮かび上がったのである。満月と飛行機が重なるのが珍しいことなのかは分からないが、ちょうど日のその時間、その場所で見上げていなければきっと見えなかっただろうから、それはものすごい偶然に思えた。もう二度とその様子は見られないだろうと思った。それは大学受験を控えた冬であった。私はなぜかその偶然に出会えた幸運から、これは大学に受かるな、と思った。

それと同じ広場で今、夜空を見上げていた。隣では母が、あんたが大学に受かったのは飛行機を見たからじゃなくてたくさん勉強したからだよ、というようなことを言っていて私は最もだと思ったけれど、もし飛行機を見ていなかったら受かっていなかったかもしれないとも思った。

徒然

今日外を歩いていたら自転車に乗った人が大声で歌いながら通り過ぎて行った。とても楽しそうだったのでなんだかこっちまで嬉しくなった。

一般的に、大声を出しながら移動するのはお行儀が悪いことだったりする。だから、それを見てどう思うかはその時の自分の状態によると思った。今日の私は元々気分がよかったので、その人を見て余計に気分がよくなったけれど、場合によってはその逆もあり得た。何かを見て平和だなと思うとき、そう思える自分の心が平和なのだと気づく。

犬が突然吠えた。見ると近くの建物に外階段が付いていて、その三階部分に犬がいた。ちょうど散歩中の別の犬が私とすれ違って行ったので、その犬への挨拶なのかもしれなかった。すれ違った犬はフサフサした大きい犬で、余裕の笑みを浮かべながら(というように見えた)尻尾をふって歩いて行った。三階の犬も大きかったがこちらは毛が短かかった。わんわんわん、ではなく、わおーんわおーん、という鳴き方だったので私は思わず「遠吠えだ」と言った。隣には友達がいた。

馬のことを思い出した。学校を歩いているときに急に近くで馬がいなないた。私はそのとき1人だったのに思わず「いなないた」と声に出して言ってしまった。それは少し滑稽だった。馬が走っているのを見て思わず「走った」と言うことはないのに、なぜいなないたときは言ってしまうのか。それは「いななく」という言葉があまりに非日常的だからなのかもしれない。滅多にない「いななく」という言葉を使うのにふさわしい時が突然現れたから、思わず使ったというような。「遠吠え」もそれに似ていると思った。

そういえば、「遠吠え」は確か文字通り遠くに聞こえるように吠えているはずだ。さっきの犬は通りすがりの犬とそんなに離れていなかったから、もし挨拶ならそんな吠え方はしなくてよかったと思う。だからやっぱりあれは挨拶ではなかったのだ。若しくは、そもそもあのわおーんわおーんが遠吠えではなかったのかもしれない。

 

家に帰った。しばらくするとどこかから犬の鳴き声が聞こえてきた。よく聞く鳴き声だがどこの犬かは知らない。もしかしてさっきの三階の犬かなと思ったが、それよりも近くな気もしたし、方向も違う気がした。どっちにしろ、犬はそこらじゅうにいるし、どの犬が吠えているかは問題でなかった。

 

隣の部屋の住人が帰ってきた。友達を連れていた。料理を始めた。うちは壁が薄くて生活音がかなり伝わってくるのでそういうのが全部分かってしまうのだが、私はそれが全く気にならない。たまに大音量のテレビや楽器の音が聞こえてくるがそれも気にならない。むしろ近くに人の気配がするのが嬉しかったりする。人によってはそれがストレスになったりするだろうが、私はそれがないので我ながらありがたい。ついでに隣の住人も、隣が私でラッキーだと思う。ただ、向こうの音が聞こえるということはこちらの音も聞こえるということである。私は自分の生活音を聞かれること自体は気にならないのだが、相手がそれをストレスに感じているかもしれないので気をつけなければと思う。

 

冬の夜というのはどうしてこんなに静かなのかしらと考えたが、夏の夜が今よりうるさかったかどうかと言われると分からない。多分今も夏と同じくらい音がしているが窓を全部閉めているから聞こえないだけなんじゃないかと思う。でも夏は虫が鳴いているけれど冬はいないのでやっぱり冬のほうが静かなのかもしれない。

どうしても確かめたかったわけではないがちょっとだけ窓を開けてみたら外に洗濯物を干したままなのに気づいたので急いで取り込んだ。それは明日が雨の予報だった気がするからで、普段ならそのままにしておいたと思う。寒すぎて外の音を聞くのを忘れた。冬の夜が静かかどうかは分からないが、寒いのは確かだ。

最近徹夜したりコタツで寝たりを繰り返していて、今夜こそきちんと布団で寝ようと決めていたのに、まだコタツにいる。周りでインフルエンザが流行っているようなので体調には気をつけなければならない。帰省する直前にインフルエンザを発症して帰省できなくなり、病院にも行けずお正月は下宿で1人苦しむという最悪の事態を想像した。これはなんとしても避けなければならぬ。そのためには今すぐ寝たほうがいい。私は私にお説教じみたことをして、ようやく立ち上がった。

わるいひと

自分にとっていいことが他人にとってもいいこととは限らず、また同様に自分にとって悪いことが他人にとっても悪いこととは限らない。しかし自分にも他人にもいいことや悪いことはある。つまり色々なのだ。このことをよく分かっているはずなのに、未だに違和感がある。

 例えば、あなたにはAという関係良好な友人がいるとしよう。特に悪いことをされたことはないし仲良くできているので、Aは良い人だと思う。しかしBという別の友人によるとAはBにひどいことをしたらしい。これを聞いたあなたの中でAの認識はどう変わるだろうか?仮に、Bに話を聞いたあなたがAのことを「悪い人だ」と思い始めたとしよう。このとき起こっていることとして2つの解釈がある。

 ⑴あなたがBから話を聞くまで、Aは確かに良い人だったが、話を聞いてから悪い人に変わった。(良い人だったことも悪い人なのも正しい)

⑵Aはずっと悪い人で、Bから話を聞くことであなたはその真実に気付いた。(良い人だったのは間違いで、悪い人なのが正しい)

 ⑴の場合、Bとあなたが会話したことで、Aは何もしていない間に良い人から悪い人に変わってしまうということがおもしろい。

⑵の場合、もしBから話を聞くことがなければ真実に気づくこともないため、あなたはずっと、Aが良い人だと思い続けるはずだ。この場合でもAが悪い人だということが真実といえるのか。真実はあなたがBと話すか話さないかということによって変わるものなのか。とまあ色々疑問が膨らむ。

 さて、この話がここまでややこしくなるのは、「真と偽」、「良と悪」という2つのはっきりしない概念がごちゃまぜになっているからだと気付いた。まず1つづつ定義しなければ。

かかわるこころ

ある人が散髪に行った。そこで美容師に、普段何のシャンプーを使っているか尋ねられたが、覚えておらず答えられなかったという。美容師は驚いて「自分が使っているシャンプーを覚えていないなんて信じられない」という内容のことを彼に言ったらしい。じゃぁ、と彼は思った。あなたはいつも使っている銀行のATMがどのメーカーのものか知っているのか、と。

なぜそんなことを思うのかというと、その人はATMの販売の仕事をしているからだ。美容師がシャンプーの種類を知っているのと同様に、彼はATMの種類を知っている。一般的にはATMの種類よりも、シャンプーの種類を知っている人の方が多いとは思うが、ここではそのどちらが多いとか少ないとか、いいとか悪いとかそういう話ではない。

何かに関心があるということは、何かに関心がないということでもあると思う。自分が何に関心を持っているかは分かりやすいけれど、何に関心を持っていないかはなかなか気づかない。それはおそらく、何に関心がないかということ自体に関心がないからだ。

 

ところで、関心がないところから関心を持ち始めるというのは、一体どういう心の動きなんだろう。人に関心を持たせるだけのパワーが自分にあるといいのにと思う。